三月中は、集中月間であったのと、旅のしづらい時期に場所移しによる高揚と換気を得たくもあり、都内のホテルをいくつか梯子した。三箇所宿泊したうちの一つが浅草だった。部屋のドアをあけると窓の向こうのスカイツリーが目に飛び込んできた。
ホテルの話は別にまた書こうと思っているのでここではさくっと説明するに留めるけれど、おこもりのためであるので机があればよく、連泊するので料金は抑えたかった。
そんな中、ありがたいことに、緊急事態宣言が解かれる前、オフシーズン、外国人観光客がいないなどの条件が重なり、都内の個室でも3000円前後で宿泊できるホテルが少なくなく、浅草にあるタイ資本のこのホテルも平日は一泊3000円で出ていた。加えて長年のブッキングドットコムユーザーであるため、同じ金額で高層階へのアップグレードが特典でついていた。目的はおこもりなので景観のよさは特段に求めてはいなかったけど、いいに越したことはない。
部屋を開けてすぐ目に飛び込んできたスカイツリーにテンションがあがった。し、広々とした机は窓に面して設置されており、これで集中できないわけがなかった。ついでにいえば、ベッドのかたさもよかった。この料金で景色と集中と寝心地をゲットできるとは、日本大丈夫かと不安になるほど。実際、だいじょばない気はするが。
話を浅草に戻す。集中できる部屋でよかったのは、久しぶりの浅草にわくわくしてしまったこともある。おちつかない部屋であれば、もっと外に出てしまっていただろう。おかげで、最終日のチェックアウト後は、次のホテルのチェックイン時間まで少し観光的に歩き回るなどしたけれど、三泊している間は、夕方から夜にかけて食事をかねて気分転換に散歩に出たくらいだった。
二日目の夕方、もんじゃは食べておこう、でもあまり人気なさそうなお店にしよう(失礼)と決め、ホテルの近くの古い小さな門構えの店に入った。平日だからか、時間帯か、時期のせいか、いつもなのか、お客はずっと私ひとりだった。ご主人に、いちおうもんじゃ作ったことあります、とごにゅごにゅ伝えたけれどスルーされ、おとなしく、おせんべいまですべてご主人につくっていただいた。土手を作るやり方はNG、昔ながらのもんじゃ焼きとはこういうもの、という話をききながら、以前紹介させていただいたような昭和の味を想像させる素朴な味覚のもんじゃ焼きをいただいた。
お会計をして外に出ると日は暮れていて、そのままぶらぶらと、人通りの少ない夜の浅草を、仲見世の方まで歩いた。目の前にはずっとスカイツリーが見えていた。
私にとって、浅草といえば、江戸川乱歩の世界だ。中でもまっさきに思い出すのは『押絵と旅する男』。短編よりは長編派の私だけれど、乱歩の短編は一時期集中して読んでいた。
話が一旦飛ぶ。
都内やど梯子を終えて自宅に戻って数日した頃に、ひとりのフォロワーさん(※)が、少し前に載せた短編について、以下のような質問をなげかけてくれた。
ソムニウムさんの過去投稿もので、アホウドリとか出てくるような短編の発想の源は江戸川乱歩とかなのでしょうか?
私の答えは、「乱歩の短編は一時期はまって読んでいたけれど、小説の血肉になったのかは本人的にはわからない、けれど奇妙な小説が好きでよく読んでたし、乱歩も一部として溶け込んでいるのかも」というなんとも曖昧なものだったのだけど、少し前に浅草に泊まっていて、江戸川乱歩について考えていたことを見透かされたようで、ちょっとおもしろかった。
乱歩の短編を再読しようと思ったのは、そのやりとりも無関係じゃないように思う。『押絵と旅する男』はありがたいことに今では青空文庫で読める。さっそくダウンロードして読んだ。
乱歩の短編の中には、倫理的に好きだと正面切っていうのがはばかられるような話もあるけれど、この話は、ぞくっとする怖さと際立つ奇妙さも保ちつつ、美しさも感じられる物語だ。
主人公が列車の中で大きな絵の包みとともに旅する男に出会い、その絵に関する逸話を聞く。男には兄がいたが、ある時から兄の様子がおかしくなり、痩せて考え事にふけるようになる。その原因を突き止めるべく、でかけていく先を追ったところ、兄は十二階なる建物の中に入っていく。その塔から遠眼鏡を使ってみたものは・・・という話。
遠眼鏡から眺める景色は、私の中で勝手に作り上げられている。それは乱歩が描こうとしていた光景とは違うかもしれない。当時はどこか高台から見下ろしたのだな、ということだけが残っていたのだけど、今回再読して、浅草十二階の言葉にまっさきに反応した。そのまま読み進めればすぐ先にでてきたのに待てずに検索し、それが凌雲閣という建物の通称であることを知った。さらに凌雲閣ってどこだっけ、まだあるのだっけ、と間抜けなことを考えて検索を続け、大正十二年の関東大震災で倒壊した今はない建物であることを知る。
スカイツリーのある地は浅草ではない。押上だ。でも青く光っていたスカイツリーを眺めていた夜の浅草の雰囲気と凌雲閣が今、自分の中でリンクしており、ひどく不思議な感覚に陥っている。
夜の人気のない仲見世。雷門から宝蔵門。仁王像。咲きかけの桜。月。乱歩。スカイツリーと今はない凌雲閣。そして押絵と旅する男。
新しい浅草と古い浅草。
浅草は、京都と並んで日本文化を手っ取り早くわかりやすく感じられる場所である、というと語弊があるかもしれないけれど、でも、外国人が憧れる日本の文化があるとすれば、一つはまちがいなくここにあるだろう。だから、私の中で現代の浅草は、状況が状況だから昨年今年はいないとしても、外国人の集まる場所として上書きされているところもある。
私自身が浅草に初めて来たのはいつだったか覚えていないのだけど、明確な意図を持って来た時のことはよく覚えている。目的は花やしきであった。動機は乱歩。結婚していた頃で、元夫と来た。元夫も乱歩にハマっていた。今思い出したけど、多分彼が先で、私は話を聞いて読み始めたんじゃなかったかな。
ただ。動機は乱歩といったけど、実は読み漁っていたころと前後して京極夏彦にもハマっていた。だから、浅草といって思い出すのは京極夏彦のあの枕本シリーズもある。だから花やしきに行こうと思った動機は、『魍魎の匣』もあったかもしれない。『魍魎の匣』と『押絵と旅する男』はつながっている。少なくとも私の中では。
そういう下地があるせいなのか、現代の浅草として、雷門の前で外国人が記念撮影をしたり、Youtube用の動画を撮ったり、といった場面も脳裏に浮かぶ一方で、どうしてもどこか物語の中の世界として見てしまう感覚が抜けない。今回夜の浅草を散歩したせいなのか、再読したせいなのか、それが強まってしまった。
とほ
追記:
それにしても、私、昔っから映画だの小説だのがその地を訪れる動機になっていたのだな。
追記2:
再読のきっかけは本当はもうひとつあるけど、それもホテル記事と同様、近々書く予定なので待て次号。まさかのあの映画を観た話。