[再録] 信天翁の話

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創作

 

⚓️

ぼくはかれこれもう千回は、飛び立つ練習を繰り返していた。

それなのに翼は一向にしなやかに動く気配をみせない。ごつごつとした岩を思い切りよく蹴って、重い羽を必死にばたつかせる。気持ちは青空高く舞い上がったつもりでいても、またたく間に地に足が着いてしまう。

本当に飛べるようになるのだろうか。

やがてぼくたちは長い長い旅にでなくてはならないのだ。海上を休みなく、長い長いあいだ。それまでに間に合うのだろうか。

ぼくたちが本来、編隊飛行をしない種であることは、すでに授業で学んだ。皆での渡りは初の試みなのだという。そのためにも、足並みを揃える必要がある。出発までにぼくは間に合うのだろうか。

案ずることはない。

長(おさ)が来て言った。

皆おしなべて通った道なのだ。練習を繰り返せば繰り返すほど、じょうぶな翼が持てる。旅が快適なものになるだろう。必ず飛べるようになる。われわれはそのようにつくられているのだから。

あの神に近づくほどの飛行技術を習得したかもめのように?

夢ではない。

長、それはいつごろですか。

まちきれないぼくはついたずねる。

長は、つるりとした頭を厳かにぼくに傾けて答えた。

おまえのそのふさふさした黒毛がわたしのように抜け落ちるころだよ。

そのとき、ふたりの人間が通りかかった。

やあ、アルバトロスだ。

背の高い方がこちらを指差して言った。

ああ本当だ。わたしの国ではアホウドリといいますがね。

背の低い方が答えた。

この島に人間なんてめずらしいですね。

調査にでもきているのだろう。

あれはぼくたちのことを言っているのでしょうか。

そのようだな。

だけどぼくたちの名前は・・・

長がぼくを制した。

先は言わなくてよい。われわれがどのような者であるかは、その名を持つわれわれがわかっていればじゅうぶんなのだ。むやみに唱えるものではない。

でもかれらは・・・

人間はこの世のあらゆるものに名前をつけた。自分たちが解釈しやすいように。それぞれがもともと持っていた名前のことなど知るよしもないのだよ。はじめから耳を傾けようともしなかったのだから。万物の真の名前を知ることができれば、かれらの世界も少しは変わっていくことができるであろうに。

それにしても、アホウドリという響きはなんだか気に入らないな。

ほっほっほ。でもおまえもさきほど、神に近づいた鳥を人間たちがつけた名前で呼んだではないか。

あれは・・・言いやすいから。

ほっほっほ。人間がつけた名前は記号のようなものとわりきればいいのだよ。練習を続けなさい。旅に出れば、そんなさまつなことなど忘れてしまうよ。

去っていく長の後ろ姿をみながら、ぼくは、ぼくもあれほど見事なつるつる頭に早くなりたい、と強く思った。ふさふさなうちは半人前なのだ。

⚓️

そしてぼくはさらに練習を繰り返した。さらにさらに、もっと激しく、もっと厳しく、持てるすべての力を出して。

けれど飛べるようにならなかった。空中に五秒も浮かんでいられないのだった。どんなに羽をばたつかせても、一メートル以上は高く舞い上がれないのだった。

同じころに生まれた仲間たちは、すでに断崖からの飛び降りという練習の最終段階を迎えている。優秀な者は、断崖から吹き上がる風をなんなくクリアし、年長者にたしなめられなければそのまますうすうと海上をどこまでも行ってしまいそうないきおいだし、遅れをとっている者でさえ、飛沫を上げる海面すれすれまで落ちながらもなんとか浮上し、旋回して、ぼくのいる陸地まで戻ってくることができる。

かれらは口々に、飛行感覚のすばらしさや腕を試せる旅がいかに待ち遠しいかを語り合っていた。年長者たちも、そんなかれらを微笑ましそうに見つめ、自分たちのころはどうだったかを語り始めるのだった。

仲間たちの黒毛はすべて白毛に抜け替わろうとしていた。そしてぼくの毛もまた。

⚓️

長と会話をして以来、黒毛が抜け落ちる時期を目安にしていたことは確かだ。そのころがくればぼくは、あれほど厄介に思えた翼を手なづけ、悠々と空を舞っていることだろう。そうしてだれよりも旅の夢を熱く語り、年長者たちをして、若いなあ、まあ無理もない、と苦笑せしめていることだろう。飛べなかったころのことが夢のように思えているだろう。

空を飛ぶ。それはぼくが渡り鳥という種である以上、あまりにもあたりまえのことだった。群れのみながすべからくそうであるように。

だからといってけしてあぐらをかいてわけではない。目安は目安であって、少しも手を抜くことなく毎日練習に励んでいたつもりだ。皆に劣っていたとは思えない。

でもぼくはまだ飛べなかった。ぼくだけが飛べないでいた。姿はおとなとほぼ同じになりつつあるというのに。

飛べないアルバトロス。あるいは飛べないアホウドリ。あるいは。

そんな話、聞いたことがなかった。

⚓️

なにが悪かったのだろうか。

その一、練習の順番をまちがっていた。
その二、ぼくの精神に問題がある。
その三、秘伝があり、じつは皆こっそり教えてもらっている。
その四、飛べない催眠術にかけられている。
その五、飛べない鳥の霊が取り付いている。
その六、ぼくはじつは鳥ではない。
その七、これはぼくの夢である。
その八、本当は飛べないのが正解。(どうしても飛んでしまうみんなは、本当はぼくをうらやましがっている)

だんだんばかばかしくなったので考えるのをやめた。考えれば考えるほど出口のない方にはまりこむばかりだ。本当にろくでもない。なにか不測の事態が起こると、すぐその原因に目を向けがちだ。原因があろうとなかろうと、ぼくが飛べないのは事実なのに。

ぼくはこのままいさぎよくあきらめるべきなのか。それともぎりぎりまで努力を続けるべきなのか。

いちかばちかであの崖から飛び降りてみようか。

ざん・・・ざん・・・と激しく岩にぶつかる波の音の一瞬あとに、こんな高い場所でさえ水しぶきが飛び上がってくる。その白い泡の見え隠れする方へ一歩足を踏み出しかけた。そのとき。

群れの伝達役が、けたたましい鳴き声と羽音を響かせて、皆の注意を促した。そうして頭上を旋回しながら、出発の日が決まった!出発の日が決まった!と叫んだ。

出発は明日!出発は明日!出発は明日!

出発は明日・・・。

ぼくはもう間に合わない。

⚓️

出発の日。

皆は慌ただしく羽の具合や風の向きを調べたり、点呼をとったりしている。はやる心と不安のないまぜになった表情をして、落ち着かない様子だ。

ぼくは勇気を出して、仲間たちに近寄っていった。

どうか無事で。

それ以上はなにも言えなかった。

皆もなんといっていいかわからない様子だった。

(君たちが帰るころにはがんばって飛べるようになっているよ)

(あきらめずに練習して、飛べるようになりしだい追いかけるからさ)

(もう飛ぶことはあきらめたのさ。だからぼくのことは気にしないで)

そらぞらしいセリフが頭の中を去来したが、結局ぼくもだまっていた。

しばらくして、ようやくひとりが言った。

元気で。

きみたちも。

さようなら。
さようなら。
さようなら。

ぼくたちは今や完全におとなになっていた。あんなに黒々と頭を覆っていた毛はすっかり抜け落ち、憧れた長と寸分たがわぬ姿になっていた。もし何者かが群れを俯瞰しても、この中に異端者がいるなどとは気づけないにちがいない。

むすこよ。

ふいに背後から声をかけられた。振り返ると、群れの決まりで練習を開始して以来一度も話すことのなかった両親が立っていた。

ふたりで話しあったのだけど。

かあさんが言った。

あなたを旅に連れて行きたいの。とうさんとかあさんで順番に背負うから。疲れたら皆も手伝ってくれると言っているの。いっしょに行きましょう。ひとりでは置いていけないわ。

とうさんもうなづいた。

ぼくはなんともいえない気持ちになった。厳しい練習のさなかでさえ、間に合わないことを悟ったときでさえ、浮かぶことのなかった涙がもう少しであふれそうになった。それを必死で飲み込んで、できるだけ平静な声で、ありがとう、でもぼくは行きません、と言った。

ここに残ります。

正直な話、昨日からずっと、どんなに飛べないと、もう間に合わないと、わかっていても、ここにひとりで残らなければならないことを受け入れるのは怖かった。飛べないことと旅に出られないことを結びつけるのがどうしてもできなくて、見ないふりをしていた。

でもこの瞬間にわかった。ぼくは旅には出ない。出てはいけない。ひとりここに残ることでどんな危険が待ち受けようと、飛べない鳥が旅に出てはいけない。

とうさん、かあさん、お体に気をつけて。

・・・ほんとうに?

もっといろいろ言いたそうなかあさんを促して、ぼくから離れながら、とうさんは、おまえも無事で、とだけ言った。

気がつけば、海側にいる者から順に飛び立ち始めていた。

やがてぼくのまわりにいる者たちも次々に舞い上がり始めた。あまりにも軽やかに。ごくあたりまえのことみたいに。

それはまったく見事な光景だった。

それまで岩場を埋め尽くしていた白がいっせいに空側に移動したので、なにか見えない力がぼくも一緒に引き上げてくれるのではないか、と錯覚したほどだった。

さっきふんぎりをつけたばかりなのに、思わず翼をばたつかせた。

しかし、やはり錯覚は錯覚だった。ぼくの足は、あの人間たちのように地にしっかりとはりついたままだった。ぼくだけがこぼれおちた白い小さなしみのように、岩場に取り残された。

そのままの姿で空を見上げた。

そこには、途方もなく大きな一枚の白いレースが広がっていた。風に流されるように徐々に海に向かってたなびきながら、さらに規則的な模様を形作ろうとしていた。

みろ、アルバトロスが飛び立っていく。

声がしたので振り向くと、いつかの人間たちだった。

編隊飛行か、これはめずらしい。

もし飛べていたなら知らなかっただろうレース模様を、人間たちと同じ陸側から眺めながら、ぼくは心の中でささやいた。

さようならアルバトロス。さようならアホウドリ。さようなら・・・・・・

そのときだった。

もうかなり遠ざかっていた群れの先頭から一羽、陸に向かって戻って来るのが見えた。長だった。

頭上で大きく旋回する影から、厳かな声が降り掛かった。

たとえ飛べなくても、おまえはわれわれと同じ名を持つ者だ。

ぼくは一歩も動けないまま、長とともに小さくなっていく仲間たちを見ていた。

ずっとずっと見ていた。

fin.

 

 

 

 

 

※冒頭の写真はかもめです念の為