1999年に地球が滅亡すると聞いて大泣きした話。

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問わず語り

 

小学生の時、1999年に地球が滅びると給食中に後ろの席の男子から聞いて大泣きした。その話を年下の友人に話したところ、「その頃からファンタジー属性だったんですね」と言われ、何気にじわじわ傷ついている。

そうか、そういう風に見ていたのね、と。ただ傷ついているのは、どこかで図星だと自分でも思っているからだ。同時にがっつり現実的な自分も自覚しているだけに、そしてどの面も別段隠していないつもりでいただけに、今まで何を見てきたんだ、と腹立たしい気持ちもある。まあ会話なんて一過性のその場の成り行きによるものではあるのだけれど。

同時に、普段年齢差を感じさせない人ではあるけれども、やはり若い世代なんだな、あの頃のあれを肌でわかるのは同世代じゃないと無理なんだな、という、世代の違いも急に実感した。正確には、そこに安易に理由を持っていこうとした。

あの大泣きした日以降、世界は一変した。テレビの中のタモリに対し、あと20年もしないうちに地球は滅びるというのになぜこの人はこんなにものほほんとしていられるのだろう、と責めるというよりは心底うらやましい気持ちになった。あの日から始まった、海、石油、宇宙などがキーワードとなって生じる狂気に至る一歩手前のような状態とそれに伴う心拍や呼吸の異常。

それらをはじめて人に話した。

のに。

という気持ちがどこかに確かにあった。ちょっと勇気のいる話をして、ぴんとこない反応が返ってきた悲しさ。ファンタジー属性という、わたしからすれば今時の表現で括られてしまったことに対する悲しさ。まず、括られることが好きでないうえに、その属性も気に入らなかった。たとえ一部図星だと思っていたとしても、この告白に使うことはないじゃないかと。

あの頃のノストラダムスは少なくとも子供のわたしには大事件だった。後ろの席からわたしの背中を突如つついて「なあ、1999年に地球は滅亡するんだぜ」と知らせてきた男子の興奮が、恐怖によるものだったのか男子琴線を直撃したわくわくによるものだったのか、多分両方だろうけれど、変に伝搬して、わたしには恐怖一筋でおそいかかってきた。

その話を聞く前と後の世界のなんという違い。いつものがやがやとした教室、すごくおいしいわけでもないけれどおなかを満たしてくれる給食が目の前にあって、それを口に運び咀嚼し味わう、という柔らかい日常が一転して絶望に変わった。

誇張でもなんでもなく、嗚咽しながら息もつげないほど泣いて、でも後ろの席の男子はからかうのをやめず、まわりは普通に食べ続け、私だけがどうしようもない空間にはまっていた。左前方の先生の席に救いの視線を投げると、先生はゆるい苦笑を浮かべてこちらを見ていた。いま考えれば、多分一学級45人のうちの一人の内面でそこまでの崩壊が起こっているとは思っていなかったのだろう。

でもその日からそれは始まった。関連キーワードがトリガーとなって起きるすっと熱が引く感じ、そのあとに続く息ができない発狂しそうな数分間。じっとしていたらあの闇に引き込まれてしまう。引き込まれるとその後数分間(なのか数秒間なのか)は地獄。やがては必ず収まるものではあったけれど、起きている間は永遠に思えた。いつ戻ってくるかわからないのも怖かった。

その状態は夏の間続いた。あれを味わいたくない、あれがやって来る前に意識を失くせるものなら失くしたかった。避けるために死にたいくらいだったけど、「死」はトップクラスの関連キーワードなので、それを思い浮かべることすらアウトというおかしな状態にもはまっていた。

死もそうだし、災害とか、地震とか、石油とか、火山とか、宇宙とか、なんだろうな、自然の脅威的なキーワードは軒並みアウトだった。海もだめだった。海のすぐ近くに住んでいたというのに。困ったことにテレビの中はキーワードで溢れていた。特にその頃ってまた日本沈没みたいな映画がテレビで放映されてたんだ、よく。世界はトラップだらけだった。

大丈夫になったかもしれないと思い始めたのは、家族で夜の遊覧船に乗って足元がゆれる中、夜の海をみおろして、やってきそうな兆しはあったもののぎりぎり持ちこたえた時から。それから少しずつ、だったのか、ぱったりだったのかはそういえば覚えていない、だけど、あれがやむきっかけだったことはよく覚えている。嫌がりながらも夜の海に行き、遊覧船に乗ることを承諾した時点で、大丈夫の兆しはあったのかもしれない。

あれはパニック障害的ななにかだったのかもしれない、と思いいたるのは数十年先だけれど、今でも実際そうだったかはわからない。病院にも行っていないし、親にも打ち明けたことはないし。

ただあの体感の記憶だけはいつまでも残り、戻ってこないよう、注意深く、といってもとくに何かをしたわけでもないのだけど、精神の状態を何かそのように、あれが戻らないよう、取り込まれないよう、自分を持っていった。子供なりに。内側で境界線を引くように。

同時に、ある種の諦観もこの頃に生まれた気がする。

地球に終わりがあること、親がいつかいなくなってしまうこと。惑星と肉親と、えらく規模の違う話だけれど、どちらも消滅を感じさせる時点でわたしには違いがなかった。だけど例の感覚がよみがえらなくなり、なんらかの線引きが内側で行われるにあたり、ものすごく怖がりだった私がいなくなり、消滅はいずれは来るものなのだと受け入れるスペースが生まれた。投げやりの諦観というよりは、受け入れ、ゆるやかな覚悟、あるものとしておいておく、というトーンのもの。

今でも全然こわがりではないとはいわないし相変わらずわちゃわちゃしてもいる一方で、どこか絶対的に落ち着いた部分を自分の中に感じるのは、もともとあったのかもしれないけれど、どうもこのあたりで育ったくさいと睨んでいる。

後ろの席の男子の中にあったものは、単なる興味なのか、からかったら超反応する格好の的がいたのでエスカレートしたのか、それともひそかに自分の中にも恐怖があってそれを誰かにトレースしようとしたのか。実際にはわからないけれど、少なくとも、あのおもしろがるスタンスもありうるのだ、と思うようになった。

冒頭の彼女の話に戻るけど、もしかしたら、というか多分、というか明らかに、彼女にわたしのこの体験談は不要だったのだろう。いま書いてよけいにおもった。そういう反応がありうることは彼女の性質を考えたら予想がつくことだった。彼女が年上の人間にはたとえ親しい友人でも配慮をする人であることはわかっているし、でもぴりからな部分もあり、そこも好きな部分ではあり、わたしとのちがいをおもしろく感じてもいる。その日はうまく噛み合わない方の日だったのかもしれない。

それでもわたしは傷ついたのだ。

ということを、今ここに書いたことで認めたことで、何かすっきりした。のでよしとすることにする。

だし、正直いうと、いま書きながら自分でも笑ってしまったのだよね。いやまあ事実ではあるのだけど、ノストラダムスでパニックて。

でも、笑ったのは今はどっしりしている大人の私だからで、あの頃の絶望を否定する気はない。きっかけがなんであろうと、あんな絶望を抱えながら、あちこちにちらばっているトリガーに耳をふさぎたくなる日々を送っている子がいたら、そんな子は抱きしめてあげなければいけない。そしてあの感情を体感で知っているのは私だけだから、私はあの夏の私を抱きしめる。

とほ