旅先で他国の人と話をする機会があるとよく思うのが、ものすっごくあたりまえなんだけれど、それぞれに隣国があるのだなあということ。隣国は多かれ少なかれ関心の対象なのだなあということ。そして少なからずその人の隣国に対する考え方が垣間見えるなあということ。
2016年の夏、サラエボを旅していた時のこと。泊まっていた宿でトルコ人男性と知り合いになった。知り合いといっても、小一時間話をしたという程度。その時のことを書いたメモは、こういう書き出しからはじまっている。
サラエボの宿で。ちょうど読んでいた本からの流れもあって、どの国にも優劣はない、という思いが強く去来した。
その時読んでいた本といったら、『バガヴァット・ギーター』か『幼年期の終わり』のどちらかだったはずだけど、どっちから派生したのか、なぜそこにいたったのかは覚えていない。ただ、それを冒頭に書いたのは思うところがあったのだろう。
トルコでは旅する少し前にクルド人に係る紛争が勃発していた。メモから引用を続ける。
トルコはあんなに旅しやすい国だったのに今はちょっと保留&様子見の国に入っちゃったなと思っていたけど、さっき宿で話したAntalya/Alanya出身の男性の話でも、やはりイスタンブールは今は危ないと。3カ月以内にロシアと戦争が始まるのではないかと思うと。
これはその時点での話であり、たまたま旅先で会った一個人の見解にすぎず、もちろんロシアとの戦争は起きていない。
また彼は、最初はそんなふうに情勢について話していたけれど、そのうち東欧や中央アジアあたりの国々に対し、昔はおれらの国があのへんを統治してた、みたいな、何か優越を匂わせる発言をし始めた。やがて、XX国の女は金だけ、XX国の女はビッチ、といったように周辺国の女性の特徴について、上から品定めするような発言に移行した。
聞きながら、そうかトルコにとっての”隣国”とはそのあたりなのだな、と、トルコと周辺国との関係性に関心が向くと同時に、隣国に対する感情がネガティブな方向にいくとこうなるという例を垣間見た気がした。上司に同伴してついてきたという一般人(にみえる)男性だったし、旅先で会った遠い国の人間とのおしゃべりだから軽口になっていたというのはあるかもしれないけれども。どうしても人格は透けてみえる。
そのあと、シーシャを吸いにいかないか、と誘われたけれど、明日早いからと(表向き感じよく)ことわった。
ちょっとネガティブな話をエピソードとして出してしまったけど、トルコの人のことを悪く言いたいわけではもちろんない。たまたま出会った一個人の意見と認識している。
ちなみに、一番最初に、隣国がうちとちがう!という気づき?を得たのは、はじめて行った国ペルーでだった。背景ははしょるけれど、アンデス雑貨の輸出入をしている人に同行しての旅であり、首都リマでの滞在先はそのビジネスパートナーである日系人の家(豪邸!)だった。そのパートナーとお兄さんの話題にのぼるのがいつもチリやアルゼンチンだった。
ルーチョや他の人々と話していておもしろいと思ったのは、政治や他の話をしていて、例えで他の国の話をする時に、私たちは中国や韓国、アメリカやヨーロッパの話を持ち出すけれど、ルーチョたちは、チリやアルゼンチンの話を持ち出すこと。それぞれ近い国というのは違うんだなと思った。
ちなみにそのペルー旅については、超昔の化石ブログに書いているのでお暇な方はよかったら。→それでも地球をまわってる/過去の旅
話がどんどん変わって恐縮ですが、最近ではインドという国に対し、旅先としてだけじゃなく、清濁あわせて自分の中からきりすてられないほどには精神的にコネクトするようになっているけれど、そうするとどうしても隣国パキスタンとの関係について思いをはせることも多くなる。どうかすると、最近では、自国とお隣の中国や韓国より、パキスタンとインドについて考えていることが多いくらいだ。それもどうかと思うけど。
インドの周辺国はもちろんパキスタンだけじゃない。インドがパキスタンに対してどういう感じでいるか、ネパールに対してはどうか、スリランカに対してはどうか、というのは、その地にいると肌で感じる機会はどうしてもある。
そのへんのエピソードも書きかけていたけど長くなるし、ほとんどはネガティブになりがちなのでこのへんにしておく。
冒頭のトルコ人の話を出したのは、ここ数日ニュースになっているアゼルバイジャンとアルメニアの戦闘から思い出したからである。あのあたり一帯の歴史については、知識が穴だらけなので調べないことにはあれだし、これ以上の言及は今は避けるけれど、どうか鎮静化してほしい。
それにしても、どの国にも隣国があるというのは、何度もいうけどあたりまえなんだけども、旅しているとあらためてはっと気づくことが私は多い。自国についても他国についても、仲良くしたいよ、仲良くしようよ~、とは思っているけれど、言うは易く、「隣」というのはよくもわるくも物理的に移動できないがために複雑な関係にならざるをえないチャレンジングな存在だよなあ、と遠い目をしそうになるのである。
とほ