退屈している暇がない。

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問わず語り

 

正直なところ、世界には好きになってしまうものであふれていて、私には退屈している暇がない。『物語、言葉/言語、映画、本に旅』と、五つの要素に絞ってさえも。まあ、絞ったといっても、この中にほぼ人生がつまっているというか、いれこめるので、いかようにも拡大できるのが問題かもしれない。

昔より枯れてきたところは確かにある。なんでも年齢のせいにはしたくないけれど、でもやっぱりある。なんらかの脳内物質とかホルモンとかの減衰かもしれないし、ある程度は経験によるものもあるだろう。新鮮な出会いが減ってきて、どこかで見聞きしたことがあるものの練り直し、と感じることも多い。それでもだ。新しい扉はまだある。開いた時の充足感は健在だ。知っていたけれど自分があけるべき扉ではないと勝手に放置していた扉を開けた時も、過去に一旦閉じた扉を再び開けた時も。

だから、退屈よりもむしろ、私が用心しないといけないのは、拡大しすぎてしまわないようにとっちらからないように、ということだ。充分とっちらかっていることは、いくつか記事を読んでいただければバレバレだと思いますが。

ただ、ゼロからの真のオリジナルなどもはや作りようのない世界で、オリジナルのようなものを作り出せるとしたらあとは組み合わせの妙であろうことはもうずっと感じていて、だから、矛盾するようだけれど、拡大しすぎるとなにごとも形にできずに終わってしまうという懸念の肥大化により用心して一歩も動けなくなるよりは、そこはなんとかうまく制御しつつ、自分の勘や本能にしたがって、制限つけずに琴線をたどっていく、開くべき扉は時宜を得て開く、好きの熱量に従って重心を変えていく、そして組み合わせて出来上がったものを自ら楽しんでいく、というのが一番いい形なのかな、という気もしている。

自分を楽しませる。人が「べき」だと差し出す方向ではなく、自分がこれだと思う方向に進んだり開いたりする行為自体をやめない。興味を失い、低空飛行になる時の方が、私には一番危険信号だという気がするので。

自分自身に関しては、関しても、そうやってなけなしの本能でこれからもやりくりしていこうと思っているけれど、同時に私は、いやおうなく扉を開けさせる力を持ったなんらかの創作物に遭遇した時、またその作り手のエネルギーや執念に触れた時に、一番幸せを感じるという性質も持っている。そのあたり、実は、自分の幸せ指数の中ではかなり大きな比重だ。物語でも映画でも音楽でもそう。

なにかの才能に出会った時。そんな才能と同じ時代に生きて、自分が心惹かれる創作物が生み出される瞬間にリアルタイムで立ち会える喜び。過去の名作に触れる時とはまた違う喜びがある。

「才能」なんて、言葉にすると急になんだかちんけに思えてしまうけど、まぎれもなくそういう、自分の心にどんぴしゃりに響くそれと、今同じ時代を生きていると実感した時の身震い。感謝のような気持ち。毒のようにだれかの内側を徹底的に変えてしまう力を持った才能、在り方、呼び方はなんでもいいや、生きている間にそういうものに触れられる喜びはあまりに大きくて、いざ言葉にするとちんけなものしかでてこないけれど。

だから。

あなたがもし、もし、生み出したい何かを秘めている人なら。どうにかしてそれをこの世に出してほしい。熱量のあるものを生み出したいなら、それに比例したそれ相応のエネルギーは必要だろう。そこは各人が、覚悟と優先順位を決めてちまちまこつこつやるしかない。人にやり方を聞いて踏襲する程度のものではなく。それを形にしたいなら。

もし、あなたが種を持っているなら。ここにあるよ、と示すだけではなくて、ちゃんと育ててください。とっちらかりをなんとか制御しつつ、人や自分自身によるダメ出しで本能を殺さず。そうしてできあがったものに、いつか私が、私のような誰かが、遭遇できるように。遭遇し、その才能に、作品に、リアルタイムで触れ合えた喜びを享受できるように。

とほ

 

p.s.
と自分にも言っている。