3月某日。
サリーローズの病院ごとが片付いた翌日、サリーローズとマリアと私の3人で、シティマーケットに出かけた。
その前に備忘メモ。サリーローズ、マリアのおすすめの病院で人間ドック並みの精査を受けた結果、異常なしとのこと。イギリスで受けるより全然安いらしい。話を聞く限り、技術も(少なくともその病院は)しっかりしているよう。検査結果も見せてもらったけど確かにちゃんとしてる気がした。私もインドにずっといることになったら検討してみようかな。ドクターがイケメンでどきどきしたわ、心電図に反映したかも、とサリーローズ。本当にかわいらしい人だ。
さて、マーケットに行く前にまずは、私のお気に入りカフェ、ザ・ロースタリーでコーヒーを飲んでから、ということになった。サリーローズが居心地のいいカフェを探していたのと、私が青年たちの話に聞き耳を立てていたカフェというので興味を示していたので。
コーヒーが飲めないマリアはグリーンティ、サリーローズはカフェラテ、私はブラックを片手に話をしていて、流れから、私が年齢を初めて伝えると、思ったより自分と歳が近かったことにマリアが驚いていた。でもマリア、最初のうちはどちらかといえば私に対して娘年齢に近い人への接し方をしていたけど、ここ最近では、意外に近いのでは?と感づいてたと思う。私は私で、マリアをお母さんのように感じる一方で、多分そんなに年は離れてないんだろうな、とうすうす感じてきていたし。
私の年齢が判明したところで、サリーローズがにやりとしながら「じゃあ今日は50代、60代、70代の冒険ってわけね」といった。
少し脱線するけど、若く見られることにおいては、日本人女性はどうもそのようだ、という単なる経験的事実として受け入れてはいるけれど、今よりもう少し若い頃はともかく、「年齢より若く見える」が誉め言葉と感じる時期はもうすぎた。そのつもりで相手が言っているとしても、とくに異性が軽いリップサービス程度のつもりで言っているのだとしても、や、そのサービスはもはやいらないよ、なんて。年相応で何が悪いのだろう、と素で思うようになった。かわいくないかしらね。こうして人は年を取っていくんだろう。
でもそういう呪縛から逃れられて楽になった面はある。
自分がその年代になったことにいまだ時折驚きもする一方で、この枠に入ってより楽になった自分も確実にいる。年齢を重ねることによる顔や髪や体(主に見た目)への変化に関してそこまで大きなあらがいがあった方ではない自負はあるものの、それでも今思えば40代後半が一番あがいていた時期かもしれない。鏡に映るものへの焦燥は確かにあった。めずらしく顔のリフトアップのエステに行ってみたりしたし。
でも、50になったらなぜかそれらが完全に溶けてなくな、りはしないものの、すっと落ち着いた。健康に関してはありがたいことにわりと健康体でやってきて、でもさすがに今までのようにはいかないなと感じざるをえないほどにはガタが来はじめてはいるけれど、老いに対するあらがいみたいなものは消え、むしろこの枠に入ったことで、さあこの下り坂後半戦でどこまでうまく健康に心を保ちながらやっていけるかしらね、ふふふ、とゆるく腕まくりしているような感じがある。
で、何が言いたいかというと、この「50、60、70代の冒険ね」というサリーローズの言葉を聞いた時に、なんだか愉快なものと自分が感じたということ。その括りの中に自分がいることへの受容。10代ごとの括りなんてなかなかワイルドだし、なのに、サリーローズがそういった瞬間3人のあいだにはまちがいなく同じグループねふふふという結束のようなものがあって愉快だった。し、それがこの日全体のムードを底上げしたのはまちがいない。
閑話休題。
その後、路線バスの停留所へ。私がいつも中心部まで利用しているバスの路線とは家をはさんで真逆の方面にあるバス停。私が使っていたバス停の方が家からは近いのだけど、理由はなんとなく飲み込めた。私の使っていた方の路線は明確にムスリムエリアだ。車掌さんを含め、乗客も9割ムスリムの人。ムスリム地域は入り込むとくっきりそうだとわかる空気がある。モスクの存在、人々の服装、店並びや看板。一方マリアがよく使う路線のある通りは、この地域では一番開けている繁華街で、宗教の匂いがしない、どちらかというとヒンディ、でもカトリックの教会も道すがらあり、中立というかばらけている感じがあった。マリアはこのバス通りを勧めたいようだ。私がよく使っているバス通りの治安に気を付けるようにと最近は言われるようになった。
そこにあるのは差別ではなく、住み分けなのだと感じる。それは門外漢がしたり顔で指摘する話ではない。門外漢だからこそ見えるものはあるが、簡単に避難する話ではない。それに親しくなったあとで聞かせてもらえる本音みたいなものはある。聞き出すのではなく、そうやってわけてもらったその地のリアルを、できるだけジャッジせずに受け止めたいと思う。そりゃ人間なので、聞いたことで反応して生まれる感情はあるし、自分の中にあるフィルターに気づいたりもする。でも自分の中のそういうものも含めて、やはりできる限りジャッジせずに、人から聞いた話と目にしたものを合わせて内側に蓄積させたい欲求がある。蓄積させてどうするのだと問われれば答えはないのだけども。コレクター気質ではないけれど、目に見えないそういうものの収集・蓄積には自己満を覚えるたちなのかもしれない。あるいはいつか書く物語のために? なんてね。
話がずれたので再度の閑話休題。
というか、その後とっても楽しかったんだけど、書きたいことはここまでで書いてしまったので、あとはとくに書き残しておきたいことはなく(汗)、なのであとは写真メインで。
ガールスカウトの隊長とサリーローズが呼ぶマリアのあとについてバスを乗り継いでいき、マリアおすすめの食堂で腹ごしらえをしたあと、シティマーケット(クリシュナ・ラジェンドラ・マーケット)へ。
帰りは、マーケットで買ったやまほどの野菜をいくつものエコバック(マリアのカバンから際限なく出てくるので笑った)に入れて再びバスに乗り、降りて家に帰る道すがらココナツジュースを飲んで活力を取り戻し、私はずっと食べたくて執着していた西瓜をジュース屋の隣の店でついにゲットし、たはいいものの、野菜いっぱいの袋を両手に下げた状態で両手で抱えて運んでいたら、袋のひもが切れたはずみに落として転がしてしまい、とりあげるとひびが入っていて、いいの、これで切る手間がはぶけた、と負け惜しみをいってマリアを笑わせ、でもそんなに苦労して運んだのに、家に到着したところで西瓜&メロン売りの車が家の前を通りすぎたことで、あーあかわいそうなとほ、とふたりにからかわれ、3人うけまくるという、そんな帰途。
西瓜が転んでもおかしい年ごろ50、60、70代の冒険は、その後の日々も続いたのであった。