興味を引かれて手にとりかけた本が短編集とわかると、ちょっとだけがっかりするところがある。
いや、読むのだ。短編も読む。読まなくはない。読んでいた。昔はもっと読んでいた。小学校の時はグリム童話集5巻が宝物だった。中学にあがってすぐの頃に一番読んでいた短編は、超短編の名手、星新一のSFだ。図書館にあった星新一はかたっぱしから読んでいった記憶がある。収録がだぶっているものもあって、繰り返し読んだ話もある。
宮沢賢治は読書歴の中ではずせないし、稲垣足穂の一千一秒物語が大好きだ。江戸川乱歩にはまっていた時期は手当たりしだいに読んでいた。印象に残るのは短編ばかりだ。一時期は皆川博子のぞくっとする短編が好きではまっていたけれど、打ち明けると長編を読んだことがない。読みたいと思っているのだけど短編でなぜかとまっている。ブッツアーティの短編集もボルヘスの伝奇集も好きだし、愛しい10冊を選ぶならトーベ・ヤンソンの短編集は確実に入る。こうして並べると嗜好ばればれだな。
なんだ、こうしてみると、昔はちゃんと日本の小説を読んでいたんだな。今ではすっかり海外文学寄りで、最近では、いかんこんなことでは、と急にどこからきたのか焦りを感じてリハビリ的に日本の小説にも再び手を伸ばすようになっているけれど、それほどには日本の小説から遠くなっている。
そうだ昔は日本の小説をがっつり読んでいた時期はあった。それも20代はいわゆる枕本と言われる本を読みまくっていた。厚ければ厚いほどうっとりするところがあった。この頃は推理小説にかたよっていて、京極夏彦、島田荘司、笠井潔、森博嗣あたりは片っ端から読んでいた。高橋克彦の総門谷とか竹本健治のウロボロスの偽書とかもあったな。枕じゃないけど東野圭吾、宮部みゆき、岡嶋二人、綾辻行人、有栖川有栖、北川薫・・・あとだれだっけ、とにかくそのあたりも読みまくっていたけれど、ある時、うむ、トリックものはもういいな、と、憑き物がおちたように読まなくなった。そして海外文学にシフトした。シフトしたというか、高校~大学の時は読んでいたので戻って本格化したというか。
短編集に手がのびなくなったのは20代の枕本の影響もあるのかもしれない、と今書いていて思ったけれど、どうだろうな。海外文学に移行してからは、短編にますます手がのびなくなった。少しは読む。けれど基本、手がのびない。評判がよくても短編集と知ると、のばしかけた手がつと下におりる。アマゾンで本を物色していて、たとえば新潮クレスト・ブックスなんかでレビューの星が多い本をみつけて、詳細を確認し、おもしろそうだなと期待が高まったあとで、「‥‥‥珠玉の短編集」と書いてあると、そうかあ、とそっと閉じるところがある。
なんなんだろうね。やはり長編の物語への没入感が好きなのはあるんだろう。最初は入りづらくても途中からのじゅわーっとしみこんでいくあの感じ。最後の一文のためにここまで長く引っ張ってきたのかとわかったときにカタルシスを得たり呆然とたちつくしたりするあの感じ。でもとくに何もおきない本も好きだ。遊歩する過程が自分にとってここちよければもうそれでよかったり。つまり文体が好きということなんだけれど。
それは短編ではだめなのか。なんかだめなんだよなあ。今は。この道もっと歩きたかったのになんでここでやめちゃうの、となってしまう。カタルシスが用意されている短編でも、そこまでの距離が短いと物足りなく思ってしまう。
とはいえ、認めると、本から遠ざかっていた時期も長く最近戻ってきた感じなので、勘が鈍っているというか、目がすべる、ということもよくある。リハビリ期かもしんない。
30代は現実を生きるのにいそがしく、映画も本も両方うすい時期があった。それをとりもどすように、長旅後に、まず映画を浴びるように観る時期がくる。で今、本にただいました感じ。なんだけど、映画みたいに2時間ちょいで観られるわけじゃないし、読むの遅いし、読了本の冊数は全然増えてない。積ん読ばかり増えている。困った。
映画期と読書期は私は基本かぶらない、かぶらないというか、どちらかがすごく優勢な時期がある。その間は反対側は舞台袖に引っ込む。不器用なせいもあるし、情熱の量にもよるのだろうけど、どちらもがっつり両方均等に、という期間は今まで思い返す限り、ない。
話がずれてきたな。短編よりは長編が好きという話だった。まあこれも、そのうち短編期になって、うはうは手をのばすようになる時期がくるのかもしれない。
とほ