本が旅をするには人の助けが必要。

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旅語り

10年前の旅では本が旅をする姿は実際よく見かけた。本が旅人の手から手を渡っていく、ということはけしてめずらしいことじゃなかった。

読み終わった本を日本人旅行者同士で交換することはあったし、本の交換のために普段行かない日本人宿にあえて立ち寄ることもした。1年7ヵ月の帰らない旅中、日本語に飢えがちだった後半はとくにそうだった。

日本人宿には漫画や書籍がまずあった。交換を許可しているところも少なくなかった。部屋にご自由にと本が置きざりにされていたり、ひらくと「読み終わったら移動した国で誰かと交換してください」というような文言が書かれ、リレーがしかけられたこともあった。

リレーがしかけられた本には渡ってきた手の名前が連ねられていた。本が旅するのは簡単だった。

今では日本人の旅人自体が減った気がする。と体感でも感じるし、そういう話も耳にする。現地の人から、最近は日本人がこないんだけどなぜか、と聞かれたことも1度や2度ではない。今でも毎年1~2ヵ月の旅に出かけているけれど、ヨーロッパでもインドでも、東アジア人の顔立ちの旅行者はたくさんいても、日本人の割合は少ない、それも驚くほどに。たいてい韓国や中国の人。行き先により割合に違いはあるけれど、今では中国の個人旅行者も普通にいる。

日本人の旅に対する意識が変わったのかもしれない。今は海外というと、旅というより滞在型、リモートワークとかデジタルノマドとかスタートアップとか・・・ビジネス的な匂いのほうが先にくる。

もちろん自分だって旅しているわけだし、旅で出会った友人は相変わらず旅を続けている人も少なくないし、ツイッターは自分が選んだだけあって旅人にあふれている。ようにみえる。旅先から、あるいはこれから長旅に出発する若い衆のSNSやブログ(今ではvlogですよ、兄貴!)もよくみかける。だからいなくなることはないのだろう。

けれど海外への長期個人旅行ということでは、はやりのピークはもう過ぎたのかもしれない。とうの昔に。私が長旅をした10年前あたりが最後のピークだったのかもしれない。

前回書いたけど、旅の形態も、情報を得る方法が旅人ノートの時代から、インターネットカフェ、ワイファイ、スマホsim・・・と変わってきた。今ではネット不可欠。そこに対する抵抗云々の話は長くなりそうだから、別の機会に気が向いたら書くとして。

本も形態を変えつつある。わたしもキンドルを利用するようになって久しい。紙の質量を感じながら、あとどれくらい物語が残っているのか残りの厚さを指で確かめながら読む醍醐味を手放す気はないけれど、紙であることに執着する変換期を経たあとは割にあっさりと、身軽さをキープしつつ多くの本を一度に抱えられるメリットに屈した。特に旅先では。背に腹は変えられない。

けれど、旅に出る出ない関係なく、電子書籍のここ数年の普及を考えれば、意識の変化は私だけの話ではないはず。

本が冒険しづらくなっている。

物理的に紙の本が減った。ボディ自体がまずない。そのうえ媒体が減った。旅人が減り、本屋も古本屋も減った。媒体がなくては本は旅できない。人から人へ渡っていく機会が減った。すでに減りつつあった。

そこにコロナがきた。他のあらゆる面もだけど、旅の存続可能性に関しても、現代のライフスタイルになって初めてといえる大激震、大変換が起きている。

今後も旅ができるようになるかわからない。できるようになったとしても当面は確実に制限される。ワクチンなのか政策なのかはわからないけれど仮に(仮にね)劇的な解決策が見つかったとしても、意識が完全に戻るのはずっと先な気がする。個人的には「完全に」はないのでは、と思っている。旅をする人は今後減るだろう。今までのようではなくなるだろう。

だけど。それでも。その衝動を持つ人がいる限り旅をする人がいなくなることはないのだろう。その衝動をもつ人は、何らかの形をみつけてなんとかして旅立っていくだろう。

本はどうだろうか。

本はいつまで旅をできるだろうか。

とほ