本を置きざりにする場所を探していた。

10年前の長旅の話。

旅がはじまって2ヶ月目。

ラオスの4000あるといわれる島のひとつの一泊2ドルのバンガローで、その本を読んでいた。島には当時電気が通っておらず、夜用のろうそくは買っていたけれどとても本を読める明るさではなかったので、日が暮れるまでが勝負だった。

読みながら置き去りにするならこの本だなと思った。

本をどこかに置いてくることは自分旅企画の一貫として、出発前に決めていた。

企画は本を置き去りにするだけで終わりではなかった。

本に戻ってきてほしかった。

しかし無機物が自力で戻ってくることはできない。

戻ってくるには有機物の助けが必要だった。

つまり人の手が。戻ってくる可能性があるとしたら、人を介する必要があった。それも日本人でなければならなかった。いや、日本人でなくてもいいけれど、日本語を理解する人でなければならなかった。

本が戻ってこられるよう、最後の余白にヒントを書いた。

直接的なヒント、たとえば住所や名前を書くのは抵抗があった。個人情報的な懸念もあったけれど、なによりそれではつまらなかった。あくまで「におわせ」でなければならなかった。昔みたセレンディピティという映画の影響もあったかもしれない。

いや、なかったかもしれない。今思いついたから書いた。ここでは思いつくままに書くと決めたから今思いついたから書いた。当時映画の影響下にあったかったかというと、いちいちそんな些末な感情など覚えていない。だいいちセレンディピティはよい映画であったけれど、そこまではまるほどではなかった。ロマンチックすぎるきらいもあったし。

ちなみにこれははっきり言わせてもらうけどロマンスを期待していたわけではない。と今の私が言っているので当時の私がどうだったかはわからない。書いててだんだんめんどくさくなってきた。好きなように思ってください。

ともかく。

せっせと読み終え、居心地のよかった島をあとにし、ラオス国内を北上して幾つかの場所をまわったあと、タイ、バンコクに戻った。

別の国に飛ぶ数日前に、カオサンの寺裏近くの古本屋にその本を置き去りにした。見つけてほしいのに見つけてほしくないような妙な心理が働いて、一番下の段においた。

あれから10年。

本は戻ってきていない。

なんという本なのかって。

時効だ。あかしてしまおう。

ジャック・ケルアックの『路上』。

なんか・・・・・・ベタですみません。

どんなヒントを書いたのかって?

それは内緒。

それ言ったらつまらないじゃーん。

時効だなんていってこのごに及んで戻ってくるのを期待しているのだろう、って?

それも内緒。

うそ。はい、ちょっと期待してます。いいじゃんいいじゃん、それくらい夢見たって。

ただ、多分どこかで灰になっているのだろう、という気はする。なにせ10年。まあ旅人としては10年はぺーぺーなんですが。たかが10年。されど10年。

読書の形態も旅の形態も驚く早さで変わりつつある。あの頃旅先で少なくともバックパッカーが泊まるような街では容易にみつかった古本屋を、今ではみかけることも少なくなった。バンコクの寺裏あたりの本屋もなくなったと聞いて久しい。

あとね、ヒント、何書いたのか実は覚えてないんだ。わたしは自分のスペックを信用していないので、その時の自分がかんぺき!と鼻の穴をふくらませていたとしても、使いものにならない欠陥があった可能性は、ある。おおいに。

だけどそれでも少しね。一ミリだけ。

もしまだ本がこの世界のどこかに存在するなら。

エニグマを解読した数学者ほどの頭脳である必要はないのだから、私スペックの暗号くらい解いてくれる人がひとりくらいいてもいい。

旅をする人で、日本語が読めて、古いその本を手にし、読んだあとにヒントをみつけ、解く能力と気概があり、なおかつ連絡をとってみようという好奇心のある人。

「あの、旅先で本をみつけたのですけれど、置いたのはもしやあなたではありませんか。」

ある日そんな連絡があるのを、今でもほんの一ミリだけ期待している。