伊坂幸太郎(敬称略)の小説が映画化されると聞いた時に、その原作『マリアビートル』は購入していた。こういう時、妙に完璧主義が出る私は、シリーズというのならやはり1冊目から読むのが筋だろうと、『グラスホッパー』から殺し屋シリーズ3冊とも購入しておいた。
伊坂幸太郎の小説を初めて読んだのは、1年4カ月にわたるタイからの西回り世界旅の途中だった。
当時は、といっても私が経験したのはほんの12年前だけれど、いつごろから始まったのか、安宿を渡り歩く旅人の間で本のバトンリレーがあった。つまり、人から渡されて読んだ本を、後ろに自分の名前を書いて次の旅人に渡す、というもの。
それだけといえばそれだけなんだけれど、自力では動けない本が人の手を借りて旅をするなんてなんだか粋じゃないの、と乗ることにした。そのバトンとして受け取ったのが伊坂幸太郎だった。どこでだれからだったかは覚えてない。まだ東南アジアを出ていない頃だったと思う。
で、肝心の初幸太郎はというと、短編だったせいなのか、特に印象に残らず、ふうん、で終わった。旅中は日本語に飢えがちなので、日本語活字をありがとう、とは思ったかもしれない。
それで、ともかくも読み終わったので、誰かに渡さなきゃ、となったのだけれど、前半はまだ日本人宿や日本人自体を避けていた頃だったので、なかなか人に会わず、しょうがないので日本人もちらほら泊まるらしい宿に置きざりにした。どの国だったかこれまた記憶にない。|ユーラシア大陸のどこか《アバウトすぎ》。私がリレーを途絶えさせていたら申し訳ない。
リレーの話が主体ではないので、伊坂幸太郎に戻すと、次に会ったのは、それもまたその旅の途中だった。後半の南米ペルーのクスコで、同じ部屋になった旅女子に譲ってもらった。リレーではなくて、読み終わったのでよかったら、という形で。
伊坂幸太郎の本全てが好きなわけではないんだけれど、その本は自分にとって特別、と彼女は言った。クイ料理を一緒に食べに行ったり、イスラエル料理屋で韓国人の女の子の恋バナを聞いたり、部屋でとつとつと話すなどするうちに、クールに見えるけど実は情が深い彼女に好感を持つようになっていたので、その特別にちょっと興味もあった。
それが私にとっての伊坂幸太郎初長編。それで、こういう話を書く人なのね、と興味が進み、帰国後に他にも数冊手に取るきっかけになった。少なくとも3冊は読んだはずなのだけど、タイトルと内容を覚えているのは2冊。
どれも普通におもしろくて、普通に楽しんだので、なるほど、了解、またこの感じが欲しくなったら会いにきます~、といったん置いた。けれど、この10年は映画に圧倒的重点を置いており、本を読むにしても基本的に海外方面に手が伸びがちな性質もあって、そのまま会うことなく冒頭に戻る、と。
購入したマリアビートルは、映画が公開されるまでまだまだ時間があるし、それまでに読めばいいやと思っていた。のに、1年半以上も前に購入したというのに、8月にブラピが来日してジャパンプレミアでわいているのを参加した人いいなーと横目でみている間も、映画の公開が始まってからも、まだ私は読んでいなかった。
そこは妙に完璧主義なものだから(2回目)、どうしても読むならグラスホッパーから始めないと気がすまず、それがネックとなってか腰が重く、映画も本ももういっかなー、と謎の投げやり状態になっていたのだけど、往生際の悪さもまた私の持ち味であるために、よっこらしょと腰をあげて誕生日に映画の予約を入れ、それまでに読むしかない強制状態に自分を追い込み、読み始めた。
と書きながら今自分でも「それなんの苦行?」となっているのだけど、読み始めてしまえば、グラスホッパーはちゃんとおもしろく、後半は加速がついて、殺し屋たちの狂詩曲を読み終えた。そのいきおいでマリアビートルに着手。
グラスホッパーの登場人物がちらほら登場してきてシリーズものの醍醐味を感じるも、前半はやはり読書スピードがもたつきなかなか進まなかった。それでも途中からページをくる手が止まらなくなり、なったもののそれ映画上映数時間前のカフェでであり、実は舐めたらあかんかったあの人が登場したところであえなく時間ぎれ。脳内ではまだマリアビートルが続いている状態で、泣く泣くプラットフォームもとい劇場に向かった。
つまり、伊坂幸太郎と再会はしたけれど、お別れすることなくともにブレットトレインに乗り込んだわけである。いうなれば幸太郎同伴である。デートといってもいいかもしれない。いや新幹線だけに逃避行か。だんだんわけがわからなくなってきた。
閑話休題。
ここからは映画について。
基本的には原作と映画は別物だと思っているので、脳内同伴しているとはいえ今回もその態度で臨んだのだけど、正直に言えば
めちゃめちゃおもしろかった!
西につくらせたらこうなるwというのを、こまけーこたあいいんだよ的に楽しませていただいた。
なにしろ舞台が日本なので日本人としてはツッコミどころ満載ではあるんだけど、そこをつっこむのはかえってクールじゃないというか、題材としての日本、おもしろいじゃないか、どんどんやっちゃってくれ、という心境に。
いやでも本当、昔のハリウッド映画では、イメージだけで作ったフジヤマゲイシャシャクハチニンジャハラキリサクラ的な日本があふれていたけれど、同じずれた日本描写でも、最近は、徹底的に調べもしたうえで確信犯的に崩しまくったと見て取れるものも多くて、時代を感じる。受け入れる受け入れないは人それぞれではあるだろうけど。
欲をいえば、前半はごちゃついていて、スラップスティックにしたいにしてももうちょっとこうさあキレがさあ、と感じなくもなかったけど、こういうノリ自体はきらいじゃないし、後半になるほど振り切れ具合が半端なくなっていき、いいぞーもっとやれ、となっていった。
原作でも好きだったタンジェリン&レモンがエモ担当なのは非常に納得だったし、お気に入り俳優アーロン・テイラー=ジョンソンがタンジェリンだったの満足しかないし、最初のばりばりのイギリス英語炸裂しての会話から笑ったし、原作と違う展開も含めてよきだった。”兄弟”、うん、エモい。そうだよね、この物語ではどうしてもこの二人に持っていかれちゃうよね。
でありながら、日本から参加のあのお方も込みで持っていく登場人物もりだくさんなのに、ちゃんと最初から最後まで|レディバグ《天道虫》を軸とする話であるのもよきだった。ブラピがまたはまり役。私、すっとぼけ方面のブラピ好きなのよ。
あと映画ならではで楽しんだのはカメオの面々。とくにフリーガイからのおふたり。素朴な疑問として「チャニング・テイタムはカメオで使え」という業界ルールが存在するのだろうか(笑)。 カメオでいじられる方がむしろいきいきしてる感あるのだけど。
そんな感じで映画は映画で楽しんだのだけど、観賞後、残りの数ページを読み終えて、緻密さは原作に軍配があがるな、と思った。まあでも緻密さに関しては、日本と西洋の違いとか伊坂幸太郎の作風というのとは別に、単純に、小説を2時間の映画に落とし込むと細部は削らざるを得ないのでしょうがないのかなとは思う。
原作の面白さについて書くと、蜜柑と檸檬が「おのおの一人にて」時間差で真相に気づく場面はぞくぞくしたし、互いが負けず嫌いであることがわかる場面はせつなかった。また、映画では最初からただならぬ雰囲気を漂わせていたあの方が、原作ではジョン・ウィック的舐めたらあかんやつ無双だったのも興奮した。緻密な読みごたえには王子の存在もはずせない。好き嫌いはともかく。
ちなみに、映画と原作で最大の違いはこの王子とプリンスの設定だと思うけど、映画であの設定に変わったのは、私はひとえにポリコレ対策だろうなと思ってる。未成年かつあの結末は、今のハリウッドでは無理だよね、多分。あの動機づけもいかにもで、個人的にはちょっと冷めはしたけれど、ただ原作通りの設定でやってそこだけ注視されて叩かれて、せっかくのおもしろさが減じて伝わるのはもったいないので、これもしょうがないのかもしれない。そうでなくても他にも設定変更での物議はあったらしいし。
結局原作と比較しとるやないかと言われればすみませんしかないのだけど、無理やりまとめるとかじゃなく、全体的にどちらもそれぞれにおもしろかった。3冊のうちマリアビートルが映画化されたのも納得のエンターティメント性だった。それに読書と観賞がほぼ同時になったのも、自業自得がもたらした愉快な体験だった。なかなかないよ、原作者同伴観賞(注:脳内)。
日本の小説をハリウッドが作ったらこうなるをリアルタイムで楽しめる時代。日本に限らず各国のコンテンツが相互に行き交う時代。コンテンツの時代は着々と進んでいる。
とほ
p.s.
今思ったけど、映画のあのラストはハリウッド炸裂ではあったけど、あれはあれで、随所に出てくるきかんしゃトーマスネタが活かされた気はする。
p.s.2
あと息子がローガン・ラーマンだったの気づかなかった~。育ったねえ、いい感じに。少年の頃もよかったけど。
そういえばフリーガイを観たのも誕生日だったのだった。誕生日に映画観がちな人。つまり二年連続で誕生日にライアン・レイノルズとチャニング・テイタムに会ったことになる(だから何)。