ドッグイヤーとしおり。

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物語/本語り

読書好きを称しておいてドッグイヤーを折る行為は、どれくらい許されるものなのだろう。

ドッグイヤーを折る人である。折る人であった。かつてはもっとばんばん折っていて、上の角が下と比べて厚くなるなどしていた。さすがに最近は抵抗が出てきて付箋を使うようになったが、まわりに付箋がない時は今もまだカジュアルに耳を折ってしまう。

本の耳を折るのは、自分にとってだいじなことやささる文章がそのページに書いてありますよ、という自分への印である。ただ、折ってもわかるのはそのページにあるということだけで、厳密にはどの行かはわからない。線を引くのが一番確実なのだけど、ドッグイヤーはするくせに線を引くのは中途半端に抵抗があり、仮に引く気になる時でも、付箋と同様、薄く引けてあとで消せる鉛筆が近くに見当たらないことが多い。結果、一番手っ取り早く道具がいらないドッグイヤーになる。

ただ、繰り返すけど、折ってもわかるのはそのページにあるということだけで、厳密にはどの行かはわからないので、「いつか」そのページを開く予定の自分にとっては、あまりあてにならない。見つけられなければそれはそこまでささる言葉でなかったということじゃ、と謎の賢者が未来の自分を突き放す。無責任極まりない。でも心配いらない。たいていの場合「いつか」はやってこないから。ドッグイヤーの意味。

このように、本を丁寧に扱う人からすると、私の本の扱い方は雑といわれてもしょうがないかもしれない。NGなことを3つはしている気がする。ひとつめは、上記の通りドッグイヤーを折ること。ふたつめは、読みかけのページを開いたまま伏せて置くこと。みっつめは、しおりが見当たらない時に、本のカバーの、なんていうの、そで?を、読んでいるページにはさむこと。

そでをはさむのは、読んでいるページ数が少ないうちはいいものの、読み進めるほどに、そでが厚みで丸みを帯びていくのでよろしくない。ので、一応これでも、そでを使うのは、しおりがどこにも見当たらない時に限られる。たいていは、ちゃんとしおりを使うようにしている。ハードカバーの場合、紐(あれ、スピンっていうんですね、最近知りました)がついているから、それを使うこともある。

購入した本には普通しおりがはさまっているので、最初はそれを使う。でもよくなくす。あれ、ないな、となった時によく代用するのは、映画の半券。カフェにいる時ならナプキン。レシートを使うこともあるけれど、ここまでいろいろ雑でありながら、レシートを使うのはなにか寂しい気持ちになるので、最終手段にしてある。ナプキンとそう変わらないじゃないか、って、私もそう思います。

それにしても、あまりにも自分がしおりをなくすので、あーまたない!とならないよう、一時期、余った紙やシールやスタンプやマスキングテープを使って、まとめて作ったことがある。たくさん作ってあきびんにさしておいたのがまだあるので、今のところ家にいる時にはそれを使っている。自作のしおりを使うのは、少しだけ気分があがって読書が楽しい。

ドッグイヤーをしないですむよう、しおりと同じように付箋ももう少し数をふやして、いろんな場所に置くようにしようかしら。とくに寝室。

とほ

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