伏線回収について。

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物語/本語り

 

学生のころ、同じサークルの友達が大きな病気で入院した。退院後、入院中に見た夢の話を聞かせてくれた。

「いかにも西洋の悪魔みたいなみためをしたやつがさ、目の前で巨大な計算機を使って割り算を始めたんだ。ものすごい桁の数がばらばらばらばらすごいいきおいで割られていくんだ。自分は何もできずずっと眺めているしかなかったんだけど最後の最後で余りが出た。割りきれなかった。そうすると、悪魔が、あーあ、といって去っていった」

それっていかにもな話じゃない?と私たちはからかったのだけど。退院したあとだからできた会話ではある。

私は物語の伏線はすべて回収しないといけないとは思っていない。かといって貼りまくった伏線をすべてほうりなげたまま終わっていいというわけでもないのだけど。物語に正解などない。その回収に、観客あるいは読み手、受け取り手が納得いくか。その違い。

回収の仕方に納得いく人が多いほど、腑におちる人が多いほど、ベストセラーになったり話題になったりするのかもしれない。小説にしろ映画にしろ後ろ盾の大きさや売り出し方にもよるだろうけど、そこを引いて考えるとしても、つまり共通のお約束にのっとっているものほどひろく受け入れられるということだろうと。そこを望むのかはずしていくのかは、ひとえに書き手の嗜好。望んだとてそのとおりにはならないこともままあるだろうけど。それがまたおもしろかったりもするけれど。共通項をなぞって書いても、なぞっていることを人々が「安易」と感じてしまえば、やはりベストセラーになることは難しいだろう。この化学変化の未知数さがまたおもしろいところ。

ただ好きかどうかでいうと、個人的には、割り切れず余りの残る物語の方が好きだ。きれいに回収しきるよりは、むしろ余白や余地の残し方に心がもっていかれる性質。すべてきれいに回収する物語というのはすっきりはするし、それがこみいったサスペンスであればブラボーという気にはなるけれど、残る物語にはなりにくい。伏線回収が華やかなものは、アトラクション型ブロックバスター娯楽映画的というか、おもしろかった!すごかった!楽しませてくれてありがとう!!以上!みたいな感じの爽快感があるけど、一度読めばOKで、手放す本もそういう本からかもしれない(すみません)。

でも何を求めて読むかにもよるな。結局そこ。ジャンルや作風にもよる。作家にもよる。作家によって、この人は伏線回収がきれいなタイプだなとか、放置タイプだな(そもそも伏線のように見えるものが伏線ではなかったりする)とかある程度わかる。でもそのようにラベリングされるのは作家としても不本意なんじゃないかと思う。そこは時々は裏切られる心地よさもほしい。

余韻系がすべて好きなわけでもない。本当、ものによる。どう余りを残してくれるか、それが自分の好きなテイストであるかどうか、が私にとっては重要なポイント。世の中に受け入れられるかどうか、とは別のところで。一致していることもあるし、しないこともある。でもそれは、正直にいえばどうでもいいことで。一致していてうれしく感じることもあるし、はずれていてにんまりするところもある。そこに法則はないのかもしれない。ただ納得できるかどうか。腑に落ちるか。好きか。それだけ。

なんだかまとまりないうえに、ごくあたりまえのところに落ち着いたところで終わります。

冒頭の思い出話は何? 伏線放置?

余りの話をしたかっただけらしいです・・・おやすみなさい。

とほ