異邦人であるという旅先での感覚。キャンプ3日目の朝に思ったこと。

 

3日目の朝。夜明け前に起きて、すぐ近くにある温泉に向かう。キャンプ場に来る時に途中のバス停から車に乗せてくれた地元の方が、この山はもともとゴルフ場建設のために開拓されていて、掘った場所から温泉が出てきたけれどほったらかしにされたのが温泉の名の由来だと教えてくれた。ゴルフ場計画自体はその後頓挫したらしい。

不便な場所にあるにもかかわらずとても人気があるのは、露天風呂からの展望が一番の理由だろう。富士山を含む神々の尾根がパノラミックに見渡せる露天風呂。今の時期は、日の出の1時間前から夜は22時まであいていて、日の出と日の入りの時間帯は混むという。キャンプではなぜか日の出を見たい欲求が高まり、無駄に早起きする傾向がある私。今回もせっかくならと日の出時刻の方を選んだ。

ちなみに2日目である昨日も、日の出前には起きたものの(正確に言えば、隣が終始物音をたてる人だったので寝不足のまま朝を迎えた)、日中は晴れそうではあるものの一目見て即日の出をあきらめるほどには雲がたちこめており、すぐに二度寝に入った。

3日目にして正解だった。のぼせがちになりながらも特等席で待っていると、富士山を右手にして、左手に連なる山脈の間からのぼる太陽を無事拝むことができた。

さっぱりした状態で温泉から出ると、出てすぐのところに行列ができていた。TKG朝ごはんの文字にそそられたけれど、まだお腹もすいていなかったし、残っている食材を使い切りたかったのもあって、おとなしくキャンプサイトに戻ることにする。

早起きのおかげでチェックアウトまで時間はたっぷりある。日の出欲求云々と言っても、普段は数泊する中では毎日早起きするわけではないし、最終日はチェックアウトの時間から逆算して眠れる時間まで寝ている方が多い。そして余裕をみて逆算したつもりなのになぜか時間が足りなくなって、心がきつい状態になりながら撤収作業をし、へとへとでキャンプ場をあとにする、というのがいつものパターン。

でも今日はちがう。ずいぶん気持ちがゆったりしている。温泉のおかげもあるだろうし、日の出がそれなりに作用しているかもしれないし、昨日は2冊目の本をテント内で読もうと思っていたけれど睡魔に勝てず9時前には寝たので睡眠が足りているせいもあるかもしれない。

できるだけ洗い物は増やしたくはないけれど、フライパンくらいならまあ大した違いはないしと、外に椅子を出して、お湯をわかしながら豆をひいてコーヒーをゆっくりと淹れ、残りのベーコンとアスパラガスも炒めて朝ごはんにした。

7時前だというのにすでに暑くなりそうな気配。夏が戻ってきたかのような暑い3日間だった。太陽と逆向きに椅子を置き換え、残りのコーヒーをすする。

 

誰も自分を知らない場所に身を置くことが好きだ。

それを手っ取り早く感じやすい場所といえばやはり海外ということになる。や、無名の一般人だし、日本にいたって知らない土地で誰かにみつけられるようなことは皆無に等しいのだけれど。それでも、皆がほぼ1つの言語を話し単一民族国家といっていいこの国、自分が帰属していると認識している場所で、誰も私のことを知らない、という感覚を持つのは難しい。

フリーで仕事をしていて、好んで引きこもりがちな生活をしていて、年に1~2ヶ月旅にでる以外は時折気の合う友達と会うくらいで十分という生活を何年も続けていて、人間関係からくるストレスというものに関しては、多分おそろしくない生活をしていると思う。あまりにもストレスがないものだから逆に、時折、ええんかこれで、もっともまれるべきなのでは、とよくわからないあせりが生じるほどだ。でもまあ、それは、過去があってこそ、という面もあるわけで、これは私が選び取ってきた生活でもある。

ともかく、つまり、旅に出たい欲求はいつだってあるけれど、特に日常生活の中で過度のきゅうくつを感じているわけでもないので、すぐさまここから抜け出したい強い逃亡欲求があるゆえに旅に出ているわけではない。異邦人に「なりたい」わけではなくて、どちらかといえば、外に出てしまったあとで、たとえば国際空港のまんなかで、たとえば東欧や南アジアの僻地で、ふと、異邦人である、と自分を認識する瞬間がおとずれることがあって、その感覚がなんともいえず好きなのだ。私を知る人間は誰もいない、今ここにいる日本人は私ひとり、という感覚が。

うーん、ちょっとうまく言えてないかな。

日本人は私ひとり、と言ったけれど。

海外に出たときに、日本人というアイデンティティを常に意識しているわけではない。それでも自国にいる時よりは意識する場面は多い。さらに。場所にもよるけれど、もっと広がった認識の仕方になることもある。どういうことかというと、日本人よりも東洋人であるという認識が前に出ることがある、ということ。

それは差別的ななにかを受けた時にも感じはするけれど、多くの場合むしろ好ましい形で、たとえば、東洋の文化に触れた時になんとなく誇らしげに感じたり、あるいはもっとなにかフラットな突如の気づきだったりする方が多い。ああ、今回わたしは東洋人として生まれたんだなあ、としみじみ思ったりする。前世とか輪廻といったものを積極的に信じているわけではないにもかかわらず。

ちなみに輪廻とかその周辺に関しては、他のすべての事象と同様、現時点で知り得ないことは、そうかもしれないしそうでないかもしれない、というスタンスだ。積極的に信じ込みもしないけれど、否定もない。まあ、あったらちょっとおもしろいな、とは思っているかもしれない。いずれにしてもわかる時がきたらわかるだろうし、わかったらおもしろいけど、わからないならそういうことなんだろう、結局死ですべては終わりで、その時には私という認識は消えているのだから悲しみもがっかりもないだろう、と。

ともかく。

東洋人である、という感覚は、悪くない。なんだろう、あくまで知った気になっているだけの幻想であることは承知のうえで、東洋側の精神のありかたが好き、ということなのかもしれない。好きというか、落ち着く。しっくりくる。まあ事実極東の生まれなんだから当たり前といえば当たり前なんだけれど。

日本にいて、私は日本人である、と認識することは少ないとはいえゼロではない。でも、国内にいて、私は東洋人である、という認識が腹の底からぐっとあがってくるようなことは、まああまりない。少なくとも旅先で浮かび上がるそれのような強い感覚では。それを感じられるのも旅に出る醍醐味のひとつかもしれない。とはいえ、これはあくまで私のケース。

異邦人の話から少しそれてしまった。少しどころじゃないね、一見まるで真逆の話になってしまっている。でもどちらも感じる場面があるのは事実なんだ。何者でもないと感じる時と、国民性や出身地域を強く意識する時と。

異邦人と感じる瞬間が好き、などというのは、帰属する場所がある甘えた立場でこそ、言えることなのかもしれない。きっとぜいたくなことで、いつもそのような状況にいれば、独り耐性の強いわたしでもつらくなるかもしれない、ずっと続けば絶望を感じたりするのかもしれない。それでも。国外にいるときにふと強く浮かび上がる、今、誰も自分を知らない空間にいる、という認識は、私を自由にする。

長旅をしようと思った十数年前に、そんなのは定年後に行けばいい、と反対されて、それでも行く選択をしたことで多くのものを手放す結果になったけれど、行っておいて本当によかったと心の底から思う。世界は変わる。これからだってきっと旅はできるだろう。そう希望する。けれど、同じ旅ができるかはわからない。少なくとも行っていなければ、私はまだ、異邦人とか東洋人だという感覚が強くたちのぼったりすること、それを自分がどう受け止めるのかということ、そのほかさまざまな微細な旅先での感覚を知らないままだった。人に比べればずいぶん年を食ってからではあるけれど、ある程度長い期間帰らない旅、というものを私は人生の中でどうしてもしたかった。誰も私を知らない場所にいるという感覚がひどく好きだ、などと、それまでの短い旅行でも感じたことがあったのかな、どうだろう、あったのかもしれないけれど記憶にない、それは、長い旅の途中、考える時間がある中で自覚したものだ。知ることができてよかった。行っておいてよかった。

このキャンプ3日目の朝のつらつらは、旅先で何度となく感じてきて、何度となく反芻してきたことなのだけど、それをふと、海外でもなんでもない、国内でキャンプなんてしながらまたつらつらと考えているのが自分的におもしろくて、ここに残しておくことにする。

とほ

 

p.s.
今回は珍しく最後まで余裕ある状態で、無事、定刻の30分前にチェックアウトしました。

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