いかに正論でも、他者の書いたものや行為に対して、それらの言葉を選択する時点で、書き手の主張に対する信頼性は私の中から消える。
本当に伝えたいことがあるなら、人の目を引きはするけれど手垢のすでについた表現を、人をはっとさせる目的で安易に使わずに主張すればいい。まがりなりにも書き手なら。
その言葉を選択する時点で、主張があるから書いたはずのものの価値を、書いた本人が、粘着非難している対象と同じかそれ以下に落とすことにならないだろうか。
それらの言葉を冠した主張は、たいてい断罪する「快感」がともなう。その手の快感がすけてみえる文章には、虐、という言葉が似合う。それは、目を引きつけるために使われたその言葉にはあたわないのだろうか。
だからといって、おかしいものにおかしいと言うなという話ではない。けれど、過度の正義の蓑をきて人をたたく行為は、ヒステリーと同じ。発表する前にそこにいじめの構造がないか、怒りを抑えることなく発散させる快感がどこかに潜んでいないか、捌け口としての怒りの矛先にしてないか、今一度考えてからだしたほうがいいのでは。
なんらかの炎上に反応して加担にまわりやすい人もだ。自身の正しさを一点の曇りもなく信じているんだな、と思いたくもなる断定をよくみかける。自身の過去のあやまちやグレーゾーンは本当にゼロな人なのか、ないと信じているのか、見ないふりをしているのか。
「つい人間だからやってしまう」は、たたかれている対象にも、たたく行為にも、はっとする強い言葉に反応してたたくにまわる行為にも存在する。どの方面にもありうる。いかに踏みとどまるのか、選択するのかしないのかは私にはとてもだいじなこと。
強く刺激的な反対意見は一見正論にみえる。そこにすぐに乗ってしまう人は、おかしいという人のおかしいという理由もよくよく考えてみたほうがいい。ひとつの考え方、見解にすぎない。それが唯一の社会的に正しい見方である、と暗に押しつけてこようとする向きは、どんなにもっともらしくても、私はこれからも背を向け続ける。
とほ