海外に身を置いていると、定期的に日本語が、日本の歌が、狂おしく愛しくなることがあるのだけど、なぜだろう。恋しいではない。寂しさとは連動していない。愛国的な感情とも違う。愛しいだけじゃない、私の中に渦巻く日本語が自己主張を始める。ここから出せ出せとさんざめく。その国の風景をざわめきを匂いを取り込み享受しているさなかでさえ。ないものねだり、あまのじゃくなんだろうか。それは否定できないが。日本的なメロディに乗った日本的な歌詞を聞いていると、呼び水になるのか、内側の声はなおいっそう大きくなる。最も使う英語のために、その国の言語のために、スペースを残しておきたいのに。声は言う。別段音にしなくたっていいんだ、他の言語を享受していたっていい、ただおまえの内側に元からある響きも表に出せ、書き落とせ。
静けさと気候のせいもあるかもしれない。
この国でこの静けさとここちよい気温の中で考える時間が得られているといったら、多くの人は驚くだろう。でもこの国は広い。大音量と匂いとカオスばかりの国ではない。そのカオスを浴びにきた面もあるとはいえ。今回はカオスの中の静けさを探しにきた。今回したいのは旅じゃない、生活だから。旅の中で浮かび上がる日本語。生活の中で浮かび上がる日本語。自分の中で起きる違いをじっと観察している。
ふと気づいたけど、内側の日本語が大きくなっているのはもうひとつの要因もあるかもしれない。思いがけずあっというまに仲良くなった現地の友達。他国の人の自国への興味が、自国をふりかえるきっかけになることはある。一冊の本がきっかけとなった日本への、日本人の心のたたずまいへの関心。海外で有名になって日本に逆輸入されたその本を私は読んでいないので、実際は良い意味でも悪い意味でも誤解があったり持ちあげられているのではないかなんて思わなくもないけれど、私たちはそんなものじゃないよきっと、と読む前から否定するよりも、あなたが最初に興味を持ったのが私たちの内側であることがなんだか嬉しい、と私は伝えた。別に外側からだって何も悪くはないのだけど。入口はなんだっていい。でも彼女のそれが熱狂ではなく、静かな関心であることを好ましく感じる自分もいる。彼女の質問が日本語を考えるきっかけになっている。
こっちに来てまだひとりも日本人に会っていない。見かけすらしていない。聞こえてくるのは複数言語だ。すべて現地の。そのうちのほとんどを認識できない。頼みの綱は英語だ。質はともかく。なのに私は日本語とともにいる。日本語が血液に溶けて体中を巡っている。
とほ