III.コネもなにもない人間が旅の本を商業出版するまでの話。

本の出版

その3. 出版社の反応

 

第一段として三社に原稿を送り、二~三週間だか一ヶ月だか経ったある日、郵便が届いた。受け取ると、それは最大手ではないけれど名前を言えばだいたい誰でも知っているだろう出版社に送った自分の原稿だった。ただ元のままではなく、残念ですが、と却下を知らせるレターが添えられていた。

A4一枚に、出版できるレベルには至っていない旨と、どこがだめであったかについて記載されていた。要約すると、旅先の描写が平凡だし、人物観察も足りていない、といったような内容だった。

そうかあ、人物、まだまだかあ。自分ではそこが売りくらいのつもりでいただけにがっかりはしたけれど、プロの指摘だ。きちんと受け止める必要がある。

と思った。受け止めようとした。本当に。冒頭の名前と本文に出てきた名前が2つともまちがっていなければ。どちらも私の名前でないうえに、高橋さんと渡辺さんというように両方とも一致していなかった。さらに、しっかり読み込むと、書いた覚えがない内容についてだめだしされていた。

あー……。

多分今までもこうやって何人もに送り返してきたんだろうなあ、同じ文面で、名前だけを替えて。最初から読む気がないのなら送っていいって言わないでほしいよなあ。とは正直なところ思ったけれど、百歩譲って読んでくれて紙を入れ間違えたのだとしても、どっちにしても、こういう反応である時点で縁がないのは変わりないのだった。

最初からうまく行くほうがむしろおかしいくらいに思っていたし、相性もあるだろう、なにしろ候補は30社もある。受け止めるのは全部送り終わったあと、その他のすべての策が潰えたあとでも遅くない。少なくとも、旅エッセイでだめだしされるポイントが学べたし、あとこれは私のおかしなところかもしれないのだけれど、なるほどなるほど、こういう感じで却下されてくるのね、と、少しおもしろがっているところもあった。記念すべき却下1回目、というような。マゾか。いやなのはもちろんいやではあるんだけど、なにしろ出版社に売り込みをする行為自体が初体験なので、その過程のすべてが新鮮だった。

とにかく、この時点であきらめる気持ちは一ミリもなかったし、よし、次と思った。それに、だめだし自体はその前にもすでに受けていた。送り返されるという点での却下記念はこの出版社が初だったけれど、送る前に電話をした時点でほぼ門前払いというか、失笑、みたいな会社もあったし、受付けから先に取り次いでもらえなかったり、一応送ってみてください、と言われたけれど、雰囲気的に厳しそうと自主的にやめたところもあった。

名前の間違いはともかく(←根にもってる)、送って反応を戻してくれるだけでもまだ良心的なのかもしれなかった。その後も作成した候補出版社リストの上から順に粛々と原稿を送り続ける日々が続いたけれど、その中でも、返送してくる会社となしのつぶての会社は半々くらいだった。

原稿を送る作戦の他にも、とある出版社が、定期的に読者も予約すれば参加できる軽食パーティのようなものを開催しているのを見つけて、参加したこともあった。そういう場所に持ち込みをすることは反則だったのかもしれないけれど、ひととおりの歓談が終わり、一段落ついた頃をみはからって、めぼしをつけていた編集の人に実は、と声をかけた。

紀行本も出しているのでリストに入れていたけれど、ビジネス書や自己啓発書を主とする会社であり、半分あたってくだけろの精神だった。で、見事にあたってくだけた。それまでにこやかだったその編集者さんの、ああ、そういうことね、という表情の変化は今でも記憶に残っている。それでも別室に言って、ぱらぱらと原稿を確認してくださったけれど、また連絡します、と言って、連絡がくることはなかった。

その他にも、出版社ではないけれど、旅の本を出している方の座談会にも出席させてもらって、どうしたら出版できるかを尋ねたりもした。あの頃は自分パワーあったなあ、と我ながら思うけれど、こういう明後日な方向も含めて、本を出す糸口をみつけることに必死だった。

のに。

数百枚に渡る原稿をけして早くない家庭用プリンターで、紙詰まりを直したりインクを入れ替えたりしながらプリントアウトして、それを正しく並べ替えて、クリップで止めて、付箋をつけて、という一連の行為は、単純作業のようでなかなか骨が折れる。淡々粛々とおこなっているつもりだったけど、しだいに澱のようなものがたまっていくのを感じていた。体がどんどん重くなっていた。

半年ほど経過した時点で15セットほど作成し、送ったのは10社にようやく届かんとするくらい。

だめだしが少しずつ蓄積されていった部分も、少しはあったのかもしれない。でもそれが主原因でないのは自分でも気づいていた。

敵は内側にあった。自分が長い間目を背けていたもの。

[2023年4月追記]
この記事はnoteからの移行記事なのですが、投稿当時はこのあとに、出版をあきらめた経緯として、「自分にとっては重要な気づきだけれど人様にお見せするには少々気恥ずかしく、出版の話にも直接関わりがない」個人的な葛藤を長々と書いて、有料設定にして置いていました。今回、新ブログに集約するにあたり、ふしぎちゃんスパイスも少々入った葛藤の詳細は大幅にカットし、短く編集しなおしたものを以下に置いておきます。

そう、結論をいうと、葛藤をみつめた結果、本心に気づいて、旅エッセイを出すことを一旦きれいさっぱりあきらめ、売り込みを中止する決断をすることになります。

 

 

売り込み活動を初めてしばらくたった頃に、夢を見た。

簡単に言えば、線路に差し掛かって遮断器が降りる夢。

とても鮮明だったので起きてもしっかり覚えていたし、すぐにあのことだなと思いあたった。遮断器が意味するものはけして、進め、ではない。一時止まれ、であり、完全な止まれ、ではない、と解釈することもできたけれど、少なくとも、やめとけ、今じゃない、とはっきり言われた気がした。

なんでだよう。ここまでやってるのに。いまさら引けない、引く気ないよ。

と、だれに向かってなのか抗ってみせながらも、どこかで腑に落ちている自分もいた。今まで見ないようにしていたことをつきつけられているような気がした。書店で売られる自分の本が見てみたい。それは本心だ。書店の棚に自分の本が並んでいるところや平積みされたところを思い描くなどしていた。でも本当にそれが、自分がもっともしたいことか。

ここからそれを観察する過程がはじまり、やがて答えにたどりつく。その答えと葛藤の過程は個人的な内容なのでここでは省略するけれど、結果として、諸々が自分の中でクリアになった時点で、旅の本を出版する夢はあきらめた。そうして、「自分がもっともしたかった」ことに気をそそぐことにした。大量に残っていた送り用原稿は、段ボールにいれてクローゼットに仕舞い、旅本出版プロジェクトは封印した。

ところが、その一年後思いもかけない展開をむかえる。

とほ

 

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