内側が騒がしいのは確かなのだ。
この記事のように脳内会議はしょっちゅうだし、ほかに内側の騒がしさといって記憶に強く残っているのは、サンティアゴ巡礼路を歩いていた時のこと。
フランス人の道800kmの行程の中には、メセタと呼ばれる、起伏が少なく比較的歩きやすいかわりに広大で変わり映えのしない風景が延々と続く箇所があり、そこをひとり黙々と歩いていた。
カストロヘリスから次の場所に向かう途中だったのかな、多分何かもくもくと考えていたのだと思うけど、意識が内側からひょいと外側に戻った時に、ざりざりと小石を踏みしめる自分の足の音しか聞こえなかったことがあった。そのざりざり音があまりにも大きく響いたことで、逆に外界の静けさに気づいた。一面麦畑、鳥の鳴き声もその時ばかりは遠く、前方にも後方にも人がいない。空間がこんなに広いのに響いているのは自分の足音だけ。と同時に、さっきまで考え事をしていた内側がとんでもなく騒がしかったことにも気づいた。何を考えていたかは覚えてないのだけど、自分どんだけひとりでおしゃべりしてたんだ、と思った。あの内と外の音の差はおもしろかった。
ただ、矛盾するようだけれど、同時に絶対的に静かな面も自分の中にみる。静かで落ち着いた、揺るぎのない場所もまた、まぎれもなくわたしの中にある。
静けさと騒がしさ。落ち着きと慌ただしさ。わたしはその両方をあわせ持つ。慌ただしさ騒がしさはできれば遠ざけておきたいけれど、どちらもわたしなのだろうとも思うし、落ち着きだけになったら、それはとても凛として好きな面ではあるけれど、同時に自分で自分をうさんくさく思うだろう。
静かな落ち着いた内側を増やしていくことを奨励されているのかもしれない、この世で健やかに楽に生きていくためには。けれど、内側の会議やお祭り騒ぎが自分の一要素であることも考えると、遠ざけておきたい気持ちも確かにあるのだけれど、無理に一掃しようとするよりは、両在する矛盾を楽しむやり方もありとする自分もいる。なによりそのスラップスティック加減を少し愛しく思っているところもあるのだ。認めると。
人間である以上、騒がしさを完全排除はできない、いや、できるのかもしれないけれど、わたしはその段階におらず、なによりセットで楽しんでいたいと、あえて手放していないところもある。だからもうわたしは今世は多分このまま、騒がしさと静けさとセットで生きていく。
とほ