期限と高揚の相関関係。

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エッセイ/コラム

 

昨日書いた、コンテンツ利用における期限の必要性についてもう少し。

旅中、1冊はSF古典を読む。
いつからだったか、旅中に読む本の中に必ず1冊SF古典を含めるというマイルールを作った。 最近は電子書籍という便利な旅の...

そんなとき私は外的な「期限」を利用する。わかりやすいのは図書館やレンタルの返却日。このひとさまが設定した締切りの強制力を使う。

いくら観たかった映画、読みたかった本でも、期限がないと先延ばしにしてしまうことがとてもよくある。選択肢が多過ぎるせいだ。

何かをする時に自分でも締切/達成目標日は設定するけど、ADHD体質と格闘人生なのもあって自分で設定した期限は何かと弱く、外部からの強制的な「締め切り」はやはり助かる。

本をコンテンツと呼ぶのかという疑問は横に置き、本は、買いもするけど図書館も利用する。理由はいくつかあるけれど、ひとつは絶版になっていたり市場にもう出回ってないこと、もうひとつは返却日が設定されていること、このふたつが非常に大きい。でも、市場に出回っているものでも、分厚い学術書などをうっかり読みたくなった場合に読む前から腰が重いというジレンマに陥ったりする。そういう本を借りる。これは明らかに後者が目的だ。

実際、上下巻の言語関連の本を、上巻は購入してずっと前に読了したのだけど、そこそこ満足したし、下巻まではいっかあ、どうしようかなあ、高いしなあ、と1年くらいもんもんとしたのち、でもやっぱり目は通したい、となって図書館で借りた。そして2週間の期限が推進力になった。多分借りていなければ今もまだ読んでない。

映画も、配信の時代にレンタルもまだ利用する。これも主に同じ理由。配信はいつでも観られるからという理由で、レンタルでしか観られないものを優先する嫌いさえある。そうして配信を後回しにする。サブスクリプションだってお金を払っているのに。配信は毎月の購読料が抑止力になるようでならない。麻痺してしまう。お金を川に流しているようなもの。配信を止めたり入ったりすることで締め切りを設けようとするけど、それでもやめようとしてから数ヶ月はだらだら続けてしまったりする。で、その間に観るかというと観てない。おつ。

配信サービスに闇雲に入会することへの逡巡のわけは、締切がない自由の抱えすぎをセーブしないと性質上やばいという危機感によるものが大きい。入会するからには集中したいけど、その集中する時間が今はちょっと持てない。自分の中で映画期から本期への移行が本格化したというのもあるのだけど。

これを認めるのは少し苦しいことではあるが、配信の時代になって映画熱が明らかに落ちた。

Netflix、アマゾンプライムほかのネット配信サービスは、映画をより身近に、手に取りやすいようにしてくれたけど、その手軽さにより、私の中の映画1本1本の価値の大きさがさがってしまった。無料、安価、手軽がもたらす弊害と同じ状態におちいっている。恩恵も受けている、だから無碍に安易に批判する気はない、だけど自分の中のこの変化はどうしようもない。

劇場の暗い空間大好きで生きてきた人だけど、劇場観賞もうれつ支持派というわけではない。昔から劇場にも観に行くけれど、テレビの時代はテレビ、ビデオ、DVD、と媒体はなんであれ観られるなら観てきた。それでもあの劇場という場所の囲み感はすごい、と感じる。あの空間に映画を「数時間」「没頭するために」「お金を払って」「みずから」「取りに行く」という行為は、コンテンツへの最大の集中と愛をもたらしてくれるように思う。

数時間の空間を購入することは、ある種の高揚の枠を獲得するようなもの。コンテンツを手にしていられる期間に制限を設けるのもそんな高揚の枠の獲得と似た効果があるような気がしている。凝縮されるほど高揚の密度も高まる。高揚というか執着というか思い入れというか。

いつでも手に取れるは必ずしも心に良いようには働かない。贅沢な話だけれど。

 とほ