ふりだしに戻る。

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物語/本語り

 

 

昨日は子どもの頃の話をしたが、今日は生まれる前の時間間隔の話を。

駄菓子屋の思い出。
先日の記事からお菓子つながりで、子供時代のお菓子の思い出話を。 子供の頃よく行っていた駄菓子屋というか商店...

私は現在50歳ちょっと。昭和まっただなかの生まれだ。その昭和の時代について、生まれた後はともかく、生まれる前に起きた出来事については、少なくとも10代くらいまでは、いくら年号を聞いてもぴんとこなくて、それらが皆ものすごく昔に起きたこと、あるいは逆に生まれる前はずっと続いていたかのように錯覚していたりしたものだけれど、実はごく短い流行だったり、大きな事象だったから人が長い間口にするにすぎないほんの一瞬のできごとであったことが、それも生まれるほんの数年前、数ヶ月前だったことが、年を取るほど実感を伴ってわかっていった。これは、年を取るほどに、時間間隔が相対的にのびるせいだろう。

50年という自分が生きてきた年をあらためて思うと、昭和20年頃つまり終戦前後は、やはり10代くらいまでは江戸時代とあまり変わらないくらい昔のように思えていたけれど、生まれるほんの25年前であり、さてそこで今から25年前を思う時にはほんの少し前に思えるその期間とちっともかわりがないのだということも実感を伴ってわかってくる。

さらに、その頃に生まれた母が、私をこの世に生み出した源と言う点も付加されるのか絶対的になにか遠い過去に生まれたように思えていた人が、ほんの25歳年上の女性にすぎないことも実感を伴ってわかってくる。

その意識を生まれる前の50年にもそろりそろりと伸ばしてみる。と。昭和初期も大正もほんの最近という感覚になってくる。そのままの感覚でさらに過去への触手をのばす。と、奈良、平安、鎌倉時代と大差ないように思えていた江戸時代もわずかに何世代か遡るだけで到達してしまう。と、日本画の中にしか存在しないように思えていた人々が、血が流れていて、体温があって、振動していた人々ということが、実感を伴ってわかってくる。

そのような感覚でずっとずっと遡っていくと、縄文時代あたりまでわりと簡単に遡れてしまいそうな感覚になるし、そうすると古事記で書かれている神話と人間の物語が別れるあたりまで手に取れそうな気がしてくる。

江戸時代や縄文時代や古事記を出したのは私が今日本人だからで、自分の意識を違う国の人間にシフトさせて同じように遡っていけば、他の国の過去も「実感を伴ってわかる」のかもしれない。

ただ幸か不幸か私はその国の人間ではないので、歴史や文化に関しては、いくらわたしが日本史よりだんぜん世界史側の人間だったとはいえ、真面目にやってきたわけじゃないし、旅で見聞きしてきたものは旅で見聞きしてきたものにすぎず、その国で長年暮らした経験もないので、「実感」という点ではどうしたってその国で生まれて育ってきた人にはかなわない。

時間旅行をするには実感が到底足りない。体にしみついているものを使って初めて実感に結びつく。想像だけでは足りない。では、リアルと感じられるかのように、経験したかのように感じられるようになれば、なんらかの形で実感を後付けすることができれば、あるいは可能なのかもしれない・・・

とここまで考えて、ジャック・フィニィの『ふりだしに戻る』はそうやって過去に戻った話だったではないか、と思い出す。マシンを使わずにリアルを体得する方法で過去に戻る。まさかあれは実話だなんていう気はないけれど、上記のような遡りゲームをしていると、もっと訓練すれば本当にできそうな気がしてくる。

などとあほなことを言ってしまいました・・・と否定せずに終わるのもたまにはありな気がするので、それではこのへんで、さらなる時間旅行に行くためおいとまします。

とほ

 

p.s.
トップ画像は『ふりだしに戻る』ではなく、『ゲイルズバーグの春を愛す』です。フィニイは今持っているのがこれしかなくて。表紙は私の大好きな内田善美さん。

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