人類の寿命はどこまで延びるのか。

問わず語り

 

3年前セルビアを旅行している時に、3人から、それぞれちがう場所で同じことを話しかけられた。

「日本ってすごい長寿なんだってね。あとすごい小さい部屋に住んでるんでしょ」

バス移動中に二人、ひとりは座席が隣になった女性、ひとりは休憩中に話しかけられて片言で話した青年、それからホテルで宿の主人から。私が日本人と知ると、みんなにこにこしながら、なぜか必ずこの2つをセットで言ってきた。はっはーん、テレビでそういう番組があったんだな、と私は推測した。

真相はともかく、少なくとも3年前のセルビアでは、日本人は長生きでなおかつ小っちゃい部屋に住んでいる、と認識していた人が少なからずいたことになる。私が10日間の滞在期間で、たまたまそう認識している全セルビア人に出会うという奇跡が起きたのでない限り。

なぜこの話を思い出したかというと、先日、こういう記事が目に入ったからだ。

老いが怖い人は「老いなき世界」を知らない
生物としての人類は、かつてないほど長生きをするようになった。だが、よりよく生きるようになったかといえば、そうとはいえない。むしろ正反対だ。だから私たちのほとんどは、100歳まで生きることを考えるとき、…

つい思い出したから冒頭で書いてしまったが、記事は”日本人の”長寿について特化したものではなく、人類全体の寿命の話。

人生100年時代という言葉を聞いたのは、私はまだほんの数年前。単に私が知るのが遅かっただけで世界ではすでに周知となりつつあったのかもしれないけれど、それからさらに数年たち日本でも浸透しているように思えるし、見渡せばそのような書籍もあふれている。

リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著『LIFE SHIFT(ライフ・シフト) 』では、人生100年と見越してライフプランを建てることを提唱しており、今までの3ステージ型の人生から根本的に考えを切り替える必要があることを説いている。

それがさらに、この記事で紹介されているLIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界の著者デビッド・A・シンクレア氏(ハーバード大学医学大学院で遺伝学の教授)は、100年じゃない、120年も可能な時代に突入するという。それも老いなきままで、と。「健康なまま120歳」が普通になる、というのだ。

人生100年時代とも言われるように、人類はかつてないほど長生きするようになった。
だが、より良く生きるようになったかといえば、そうとはいえない。
私たちは不自由な体を抱え、さまざまな病気に苦しめられながら晩年を過ごし、死んでいく。
だが、もし若く健康でいられる時期を長くできたらどうだろうか?
いくつになっても、若い体や心のままで生きることができて、刻々と過ぎる時間を気に病まずに、何度でも再挑戦できるとしたら、あなたの人生はどう変わるだろうか?
(Amazonの紹介文より引用)

まだ本も読んでないし(つかまだ発売されてないし)、ひとつの説として置いておくとしても、でもその「健康なままで」というのは、寿命が長くなるとなった場合に大切なポイントだとは思う。

人生は短い。同時に短いようで長い。ゴールがみえないとつい中だるみしちゃうのは人間(というか私)のさがだし、明日死ぬかもと思いながら生きるべしといったって、いつまでかわからない中で退屈せずに生きるのは難しい。ながいなー、まだー、もういいよ、となる時もあるだろうことは想像に難くない。先が見えない中、不健康になり、そのまま120年とか私だっていやだ。100年でいいよ。って100年だって長いよ。

また違う本の話になるけど、ユヴァル・ノア・ハラリさんの著作も『サピエンス全史』を経て、今は『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』を読んでいる途中だけれど、人類どこまでいっちゃうの!?と思いたくもなる内容がぎっしりで、これも鵜呑みにするかどうかはともかく、こういう本が次々でる世の中になっちゃってるんだなあ、はああ、なんて思う。

これらの本を昨年から今年にかけて読んだのも後押ししただろうし、おそらくコロナも無関係ではないだろう、寿命について考える機会は増えている。仮に120年生きられるとしたら、それだけどのような世界になるのか垣間みられる期間が増えるわけじゃないですか。

人類とか大きなところをぼんやり考えていないで、キミは日々いろいろ足りたいところがあるのだからまず自分のそれを考えなさい。わかってますー、考えますー、だけどさ、人類どこまでいっちゃうの?も興味あるじゃないですか。

おそらくこのような思考になるのは、私が、幸い今まで大きな病気もせずになんとかやってこれたからで、同じ年代でも、大病をしてきたり、きつい人生を歩んできた人には、のんきな思考に見えるかもしれない。でも私は私の感じ方しかできないのでしょうがないんだけれど。

それでも、死は等しく皆にやってくる。遅いか早いかだけで。それまでの期間がわからないだけで。そして、今までそこそこ健康だった私も、疾患リスクが高い年齢には突入している。家系も考えればいくつか罹患しやすいそうなものもある。いつでも当事者になる可能性はある。

あと健康以外でも、これはもう女子(”女子”といってしまいますよ、ええ)である以上は、できるかぎりシワや白髪には揺れる思い出とともにゴーアウェイしていただきたい。ラブサイケデリコ様、こんなところで歌詞を使ってしまい申し訳ありません。

ともかく。美容面の問題も無視できない。もとがもとだけにどうしようもないところはさておき、これ以上増えてほしくないあれやそれは存在するわけである。今後再生医療の分野が飛躍していくだろう、という記事を見たりすると、やっぱりちょっと期待してしまう。ちょっとね。

健康や見た目は、心にも如実に反映する。

ある程度の諦観も持っていると楽だしなあ、というところもあるけれど、維持できるものならば各方面健やかさは維持したい。心も体も。もし寿命がこの先延びるのであれば、心身の健康とセットで考えるべき。ちっちゃい部屋住みとのセットではなく。

冒頭の旅エピソードに(出したからにはむりくり)戻すと、日本人の平均寿命が長いというのは、ちょっと検索するだけでもたやすく見つかるから、世界的に知られた話でもおかしくはなく、セルビアでテレビ番組になっていてもさもありなんではある。

シンクレア氏は、当該記事の最後に、1つのアドバイスとして、「食事の量や回数を減らせ」と言っている。このアドバイスも鵜呑みにするしないは別として、日本人の寿命と食生活の相関性を考えると、興味深いな、なんて思う。

ただし。日本人の寿命の長さと健康の関係については、メンタルも含めた幸福度ランキングなどをみる限りでは、はなはだ疑問といわざるを得ない。

体が健康で、見た目もぎょっとするほどでなくていいからある程度しゃんと保てて、なくさないで済むものはできる限りなくさないでいられて、なおかつ心も健康でいられて120年、じゃなくちゃ意味ない。

22世紀が幕を開ける頃に122歳で亡くなる人がいたら、天寿を全うしたにせよ飛び抜けた長生きとはみなされなくなっている可能性がある。

人類の「新たな進化」が始まっている。
今現在起きつつあることは、ライト兄弟が作業小屋で準備を進めている段階に似ている。これから見事にグライダーを飛ばして、ノースカロライナ州キティホークの砂地に着陸させるのだ。世界は変わろうとしている。
初飛行が成功する1903年12月17日までがそうだったように、現在も人類の大多数はその変化に気づいていない。

大風呂敷‥‥‥と思わなくもないけれど、人類この先どうなるんだろう、と思うとちょっとわくわくする。その前に22世紀まではどうやってもキミは生きてないのだから考えなくてよろしい、って話なんだけれども。

人類のことばかり考えてないで、明日ちゃんと早起きできますように。

とほ

 

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