知っている、という感覚がある。
はいはい、たわごとね、と聞いてもらえればいいのだけど、昔から、この世の真理みたいなことに対して、ぼんやりではあるけれど、知っている、知っていた、という感覚を抱くことがある。本を読むのは、その知っていたことを外側の世界で再確認する行為と思っているふしがある、私の中の人は。
ただ矛盾するようだけど、本の中にそれをみつけてしまうと、うまく表現してくれた!と思う反面、喜びよりは、「あー目にしちゃった」と謎に残念がる気持ちも生じる。内側にある「知っている」けれど形になっていないそれを自分で形にできるまでもっと弄んでいたかったのに、というような残念さ。
明確に定義してくれているものを読んでてっとりばやく確認したい気持ちもある一方で、人が定義したものはいらないという気持ちがどこかにある。本当、何様だけれど。それに、とっくに定義されつくしたものを知らないままに自分の拙い言葉だけで考え続けるのは、未熟な場所に留まって自己満足に浸っているだけの気もするし、そこを自分で発見した気になって喜ぶのはいわゆる「車輪の再発明」であり、ビバ!コスパな現代において、無駄以外の何者でもないのだろうけど。
多分、それでも、自分でああでもないこうでもないと考えていることが好きなんだろう。そういう人は実用書より小説が向いているのだろう。断定口調で差し出される直接的な答えを、どこか胡散臭いとはねつけてしまうタイプの人間は。
といって、実用書も読むし、自己啓発書だって読むんだけど。小説はがっぷりのめりこむように読みたいくせに、実用書は、あなたの色には完全にそまりません、と腕をぴんとはって本と顔を離しながら読んでいるようなところがある。本当、めんどくさいやつだ。し、我ながら100年早い、とも思う。一方で、これでOK、合ってる、とも思う。本当めんどくさい。
本じゃなくても、経験や学習なども含め、なんらかのプロセスをへて知識的に体得的に本当に「知っている」状態にいたっても、実はそれはすでに知っていたという感覚はあって、知っていたことにきづく時点が今だったんだな、と納得する感じ。事実と思ってるわけでもないので「感覚」というしかないんだけど。「知っている」だけではだめなことは私のどこかは「よくわかっていて」、その「知っている」ことを、身をもって経験しに生まれてきた、みたいな感覚がある。感覚感覚、うっせえわ。あら、流行りの歌がでてきてしまった。
余談だけど、『2001年宇宙の旅』は、まったく人に説明できないくせに、なんかわかるー、で済ませたひとです。これわかるー、知ってるー、という感覚がびしびし来て、超楽しい映画だった。そういう話だったっけ?。
以上、本日は(も)右脳全開なざれごとでした。
とほ