積ん読解消ソロキャンプ:俺の話とヒル妄想。

キャンプ

 

私のキャンプは「積ん読解消ソロキャンプ」と銘打っているので、当然今回も本を持参した。

 

積ん読解消ソロキャンプ:読書系キャンパーのマストアイテム。
来年の話をすると鬼が笑うというけど、年が明けても昨年の記事をちまちま更新する人のことを指す表現ってないのかな。鬼がへそで...
*最初におことわりしておくと、今回読書地がキャンプというだけで、いつにもましてキャンプの話してません。ほとんど本の話*
バレリア・ルイセリ著『俺の歯の話』。

 

この本とは、2020年10月の都内某ホテル宿泊時にふらりと立ち寄った八重洲ブックセンターで出会い、珍妙なタイトルに惹かれて手に取った。ぱらぱらする限り珍妙なのはタイトルだけではなさそうで、字面と行間から立ち上る好みの気配にお迎えしようか悩んだものの、紙質のせいかズシリと重たく、他に数冊すでに買うことに決めて手にしていたためその日は諦め、しかし頭の片隅に居座り続けたため、結局後日購入したもの。

つまり、積ん読歴2年に満たないひよっこ積ん読隊であり、面構えが違う熟成積ん読兵団を差し置いての抜擢。正直私の中では1〜2年など積ん読のうちに入らないし、積ん読なめんなだし(だれに言っている)、キャンプにはできれば熟成度の高い中から選抜したい気持ちがある、その方が「解消してやった!」という満足度合いが高い気がするからだけど、キャンプ前日の気分により勝ち残ってしまったのだから仕方ない。

でも、そうやって抜擢した本であったのに、キャンプ2日目の朝から読み始め、日が暮れる前に読み終えてしまった。

この本が重いのはページ数が多いからではなく、1枚1枚の紙の厚みによるものであった。事実、今、同じ厚さの本を背後の本棚から抜き出してページ数を確認したところ、1冊はあとがきまで290ページ、もう1冊は289ページであるのに対し、この本は214ページしかない。しかも本編は実質168ページ、あとは年表と写真図録のようなもの。

3泊の予定で来たのにどうしてこの本しか持ってこなかったのだろう、と悔やんだけれどしょうがない。タイトルと表紙とぱらぱらした感じで頭に残って購入を決め、前知識なく読み始め、興味を惹かれてあとがきを読み、しかるのち著者の背景を知る、というのは私にとっては真っ当な読書の形である気がしていて、その点で今回の読書に満足感はあるけれど、本当は興味以外に、時間が余ったから隅々まで目を通さざるをえなかった、という側面もある。

3日目に何をして過ごしたかは次の更新にまわすとしてともかく本の内容を説明すると、説明も何もタイトルのまんま、こと通称「ハイウェイ」、自称「世界一の競売人」、グスタボ・サンチェス・サンチェスの歯の話である。

こいつは俺の歯と、俺のコレクションやモノの変わりやすい価値についての話だ。どんな物語もそうだが、この話も「はじまり」があって、「なか」があって、「おしまい」に至る。そこから先は、ある友だちがいつも言ってるように、文学なんだな。誇張法、比喩法、循環論法、寓意法、そして省略法。そのあと何が来るかはわからない。ひょっとすると不名誉な死、そして最後は死後の名声かもしれない。

本人が冒頭で親切に説明してくれている。そして読み終わった今、その通りだったな、と思う。確かに宣言した通りの枠の中で物語がはじまり、なか、おしまいと進んでいき、終わった。わかりやすい。

と言いたいけれど、そうでもない。あっというまに読み終えたものの、内容がわかったかというと、煙に巻かれたまま終わったような気もする。ケム巻き度合いでいえばこの本の方が上だけれど、この物語の主人公、通称ハイウェイもなかなかのすっとぼけ具合であり、その一人称で語られる物語の信ぴょう性は甚だ心もとない。

なにしろ世界一の競売人(自称)なので、話術を駆使しながら自らの秘蔵コレクションを売りさばいていく。競売にかけられるのは著名な人物から不明な人物までさまざまな歯だ。その中にはハイウェイ本人の歯も含まれる。果たしてその歯は誰に買われるのか。歯を失った俺の話の行方は。それらが、この物語も文学である証拠として、か、誇張法、比喩法、循環論法、寓意法・・・と順を追って語られていく。書いている私もどういう意味かよくわからないが、このなんたらサンチェスサンチェス、通称ハイウェイがなんだか憎めない。憎めないけれど食えないやつなのは確かであり、「循環法」に差し掛かったところでついに、しょうがねえなこの親父は、と苦笑してしまう。

そのあたりでふと、キャンプに来る1日前のネットニュースで読んだ、ツイッターの創業者ジャック・ドーシーが2006年3月21日に投稿した初ツイートの落札者がそのツイートを再び売りに出したという記事を思い出す。高額で売り出そうとしたけれど売れる金額でなかったので大幅に値段を下げた、という話。落札されたのかまでは覚えてない。それより、いくら創業者や有名人のツイートであっても、落札されたり売りに出されたりということがある世の中であるのを私は知らなかった。別段秘密にされているわけではない誰かのひとことをお金を出して落札し所有者になる、とはいったいどういうことなのか。

とくに答えはないまま本の話に戻ると、この物語はタイトル通り「俺の歯の話」であり、光明を与えてやれ、という意図が透けて見えるような話などではない。しょうがねえなこの親父は、とどこか哀愁を感じつつくすりと笑ってしまう、「俺の話、それも歯の」に執着を持ったひとりの競売人の話である。後半は、なるほど「俺の話」がしたい人間はそういう選択をするだろうな、という展開が語られていく。

それにしても、一人称は「俺」で正解だった。一人称が複数あるのは日本語の特権だ。原題は「The story of my teeth(La historia de mis dientes)」。まんまだ。でもmy(mis)にどの一人称を当てるかで印象が変わる。その選択だけで登場人物の性質を憶測できる。ただ同時に、この「俺」感は、翻訳の過程で生じたものなのか、原作の気を汲んで落とし込まれたものなのか、という疑問も生じる。私、ではだめだったのか。ちがうな、ぴんとこない。吾輩、では。ちがう。わし、では。おれ、あるいは、オレ、では。

「俺」はなかなか強烈な個性だ。「俺」には強いイメージが伴うけれど、このハイウェイという男はけして頑強な主人公ではない。それでも「俺」がしっくりくるのはなんだろう。

一人称が複数あるのは特権でもあるけれど、デメリットになることもなる。とりわけ匿名性を持たせたい時には。まあ日本語では主語は省略できるという特権もまたあるわけだけれど。そういえばスペイン語も主語が省略できるのだっけ。

スペイン語で書かれ、その後著者自らによって英語で大幅加筆というよりは修筆?されたという本作、原作では「俺」感はどのようになっているのだろう。訳された本を読んでいるからこそ感じるものなのだろうか。

原作では、と書いたけれど、この著者の場合英語もスペイン語もどちらも「原作」と言える。

著者のバレリア・ルイセリは1983年メキシコシティで生まれ、幼少期に父に連れられてコスタリカ、韓国、南アフリカ、インドなど各国を転々としたのちメキシコに戻った帰国子女であり、メキシコの大学を卒業後はアメリカの大学へ、そういった経緯から、スペイン語と英語の両方に通じ、創作もこの二言語を自在に使いわけているらしい。

訳者あとがきによると、最初に書かれたのがスペイン語版で(その元ネタの話もあるが割愛)、そのスペイン語版をもとに著者自らが英訳者と実質上の共訳を行ったのが英語版であるという。スペイン語版と英語版は「似て非なるもの」であり、全体的な構成や固有名詞などが大幅に変更されている。この英語版が日本語他第三言語への翻訳の底本となっている。つまり日本人読者の私が読んでいるのは英語版の翻訳。訳者は、「まずスペイン語版を全訳し、それをベースに英語版を参照しつつ一から訳した」とのこと。

あとがきを読む限り、原作をしっかり汲んだうえでの「俺」選択であるように思える。

話がそれるけど、この本云々という話ではなく、翻訳にはロストイントランスレーション(Lost in translation)だけでなく、そんな言葉があるかは知らないけれどアディッドイントランスレーション(Added in translation)も存在するように思う。翻訳はそれをどれだけそぎおとせるかが鍵。とはいえ、原文に真に忠実というのは果たして可能なのか。言語が違う限りどうしても補足が必要だったり知らず知らず付加されるものはある。それに正直なところ、実務翻訳はともかく、たとえ「正しく」はないとしても、歴代の名作の中には、アディッドされたことで魅力が増した小説も存在する。このあたりについても書きたいことはたくさんあるけれどいい加減長くなってきたし、ずいぶん話がそれているのでやめておく。

それに、俺の歯の話は、addedもしくはmodifiedしているのは著者本人だから、また話が違ってくるのだった。ややこしい。ややこしいけれど、スペイン語で書いた小説を自身で英語に書き直すというのは自在感がある。ジュンパ・ラヒリやアゴタ・クリストフなんかもそうだけど、どうも私は複数言語で物語を書く人に惹かれる傾向があるかもしれない。

ところで、いいかげん長くなった本の感想はこれくらいにしてとってつけたようにキャンプの話をすると、今回行った滝沢園キャンプ場がある一帯、丹沢ではヤマビルが出るらしいことは事前情報として得ていた。

ヒルといえば、そのグロテスクな形状から、あるいは痛みを感じないためたいていは気づかないうちに吸血されさりげなく手をやるとぬるりという感触があり見ると手も患部も血だらけでなんじゃこりゃああとなるとか同行者の目視により発見されパニックになって服を脱ぎ体から引き剥がすといった経験をし

たことはないものの主に『スタンドバイミー』などの映画に基づく中途半端な知見から、恐怖心はほどよく育っており、徹底抗戦の構えとして、唯一所有していた特に登山用でもないブーツ型の靴を足元を守るために履き(この選択が他の悲劇を生むのだけれどそれはまた別の話)さらに膝丈の靴下を履き、極力肌を出さない覚悟でキャンプに臨んだ。

そこまで恐れているのになぜシーズン始めとはいえいかにも出そうな大雨の日に行くことにしたのか自分でも謎だけど、実際読書に当てた2日目は雨が上がっていたとはいえ案の定ヒルの出そうな気配に満ち満ちており、そういうわけで足を土の地面に置かないですむよう前室に置いた椅子には座らず、そうはいってもせっかくの林間、外気に触れてはいたい、だから、テントの中から外を眺めながらコットの上で読書する方法をとった。

そんなふうに防御してはいても、様子のおかしな煙巻き本を読んでいるせいで妄想が増長されたか、単にびびりすぎなのか、おそらくは後者だろうけど、競売にかけられる歯の行方を追いながら、時に元ツイッターCEOのツイートオークション話を思い出すなどしながら、頭の片隅ではずっと、いるのかいないのかわからないヒルの存在を意識していた。どこかがちょっとかゆくなったりするたびについ手をやってしまい、今にもぬるっとした感触がするのではないかと指の腹同士を無意識にこすって確認するという、よくわからないキャンプ読書体験でもあった。

幸い洗礼を受けずに済んでよかった。このキャンプ場にはまた来たいので今後も受けないことを祈る。

とかいいながら心のどこかでは、いっそさっさとやられてラクになりたいという吸血鬼やゾンビを前にした人間のような心理も1ミリくらい存在していて、自分でも始末に負えない。さらには、たいした毒があるわけじゃないのなら旅先の南京虫のように一度は体験しておくとネタになるさっさと洗礼を受けてしまえ、という悪魔のささやきも聞こえてきて、まったくもって意味不明である。

しょうがねえな、なのは、ハイウェイではなく私かもしれない。

とほ

 

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