本の標本。

物語/本

好きな出版社の、好きな装丁の本を並べてみた。

もともとはワイン箱だった木箱に色を塗ったもので、つまり実際の本棚はこの下にある。横にもある。脇にもある。だから選んだという点で、これは見せ本である。あちしこんな本読んでいるんやで、という見せたい自分の標本である。

まあ、最近私にしては珍しく何度かZoomを使わざるを得ない機会があり、題名は見えないとしても背景としてすっきり見せたいという思惑もあった。それでも、岩波を選ぶとか自分いやらしいな、という赤面もちょっとはある。でも岩波のミもガワも好きなのは事実なんだからしょうがない。

芋づるは正直。
今年の3月以降の変化で、積ん読をせっせと解消するよい機会だと思ったのに、意識がそちらに向くということは取りも直さず芋づる...

ということを踏まえて。

標本のうち、既読と未読は半々である。うそ。盛りました。数えてみたら、既読は三分の一強だった。

逐一どれがどれとは書かないけれど、少なくともフィネガンズウェイクは未読である。戯れに1冊買ってみたものの、ぱらぱらしてみて翻訳者に対する感嘆と称賛と労いとともにそっと本棚に戻した。今後も既読になりそうにない。それならいさぎよく売るなり捨てるなりすればよさそうなものだが、往生際悪くずっと積んでいる。なんなら、積んでいるあいだに既読状態にならないだろうかと思っている。ウンベルト・エ-コも『もうすぐ絶滅するという紙の書物について 』の中で、長い間本棚に置いていれば読んだことになると言ってた(曲解)。だから、そのうち、本の成分が空中に溶け出して私の養分になってくれるのではないかなー、と期待している。少なくともあと10年も熟成させたらそうなっているだろう。なっているにちがいない。最近では、背表紙が目に入るたび、かすかな罪悪感を追いやり、空中に溶け出してくれるよう念力を送っている(さっさと読め)。

サンティアゴ巡礼路を歩いた年は何を読んでいたのか。
2日前の記事で、旅中に1冊はSF古典を読むことにしていると書いた。 1冊目は2015年のインドで、2冊目は2016...

あとはドン・キホーテも未読だ。2018年、サンティアゴ巡礼路を歩きにスペインに渡る前に読もうと探したら3冊もあった。あとで全6冊と知った。
聞いてない。そんなに長いなんて知らなかった。そして思ったより難しかった。結局一冊すら読み終えてない。とはいえ、とはいえ、こちらはいつか読破する気はある。

が問題は、そのいつかは果たして来るのかということである。

そんないつか読む気ではいるがそれがいつ来るかわからない本を、人は積ん読と呼ぶ。積ん読といいます。なぜ今、丁寧語で言い返したか自分でもわからない。今日はそんな気分だからとしか言いようがない。

気分のままもう少し続けてみる。

本は物理的に実態のあるもの、つまり紙の本が今でも好きだが、海外に身をうつす企てが頭のすみにあるせいで、最近では電子書籍が出ているものは電子を選ぶようにもなっている。それだって積ん読であることには変わりないのだが、どちらかというとこれは、海外に長く滞在することになった時用に取っているようなところもある。

物理的に身をうつす計画があるなら、物理的に実態のあるものは手放す必要が出てくる。物理的に身をどこかにうつす行為は、身の回りをすっきりさせるには有効だ。なので、積ん読は紙の本を優先して崩していっている。のだけど。紙の本に関してはジレンマもある。

ミニマリストではないがコレクター気質でもないので、好きとはいえ、読み終えれば意外にさっさと始末してきた方だ。12年前の長旅後などは、私至上最も身辺がすっきりしていた。でもこの10年で再びかなり増えてしまっている。そして整理してすっきりさせたい気持ちと、手放したくない気持ちがこの数年は拮抗している。未読はもちろん既読も、心情的に以前よりずっと手放しづらくなっている。

とくに小説。とくにというか小説。実用書は相変わらず読み終えたらさっさと手放しているな。実用書は本というより情報蓄積用の文字データととらえているので、情報が古くなる前に市場に戻す。というとなんかかっこいいけれど、早い話がメルカリ行き。

「読書」と「蓄積」
フィクションとノンフィクションではフィクション、小説と実用書では小説の領域の住人だけれど、後者も読む。実用書、ビジネ...

でも小説は。さっさか手放せていたのは、今となってはだけど、いざまた読みたくなればいつでも手にできる、という、市場に対する過信があったのではないか、という気がしている。

紙の本はいったん市場から消えると、増刷されたり復活することははるかに難しい世の中になった。今後、世の中から消えていく、少なくとも確実に今より減っていくのは間違いない。そのせいで、手元にある小説をうかつに捨てられない、という気持ちが昔よりはるかに大きくなっている。今となってはなぜ手放したのか、大切で大好きだったのに、と後腐れなく手放したはずの恋にさえ郷愁が募っている。恋?

思うままに書いていたら、いつのまにか恋の話になってしまった。

本に話を戻して(まだ続けるつもりらしい)、そういうことなら、譲歩して電子に変えていけばいいではないか、といえば、私は電子は信用していないのでそうもできない。いつGAFA代官に剥奪されるかわからん、という妄想に取りつかれているためだ。たとえば標本の中にある、今では大切な小説の仲間入りした『密林の語り部』などは、決して電子に変える気はないし、私はけしてコレクターではないが、なんなら万が一のため2冊紙の本を持っていてもいいくらいだ。

電子の本は蒸発するという妄想。
Kindleで購入した本については、「手に入れた」と思っていないところがある。所有のためではなく権利のための代金だと...

それに、それに、積ん読という点でも、実は電子の方がタチが悪いのではないか、という気もする。目の前にないために、どれだけ積まれているかわからない。脳を疲弊させないためにも、その日のTo Doは紙に書き落としなさい、みたいなライフハックがあるけれども、積まれた本が目の前に物理的にあるより、実は脳の片隅でたまっていく方が地味に悪影響なのじゃないか。

なんとなーく溜まっていることは、性能がいいのか悪いのかわからない脳はどこかで認識している。忘れたふりをしていても、君が一旦購入という手段によって獲得した本という名のあれ、電子の片隅で振動してますぜ、と信号を送り続けているかもしれない。いや、本だけじゃない、クラウドに溜めているあらゆるデータが、あたくしをお忘れでは?と振動し、所有者に向かって信号を送り続けているとしたら。空中ではなく電子に溶け出して持ち主を侵食し始めているとしたら。ちかごろ脳がいやに疲弊しているのはそのせいではないのか。

気軽に標本を見せびらかし気ままに思考を遊歩させていたら、なんだか妄想がさらに発展して自分が怖くなってしまったので、今日はこの辺でおしまいにします。

とほ

 

積ん読解消ソロキャンプ。
読みたい本が山積みだ。芋づるをひっぱる手が止まらない。積ん読もくずしていきたい。 2年ほど前からソロキャンプにはまり...