『ライフ・イズ・ミラクル』で気になったボスニア紛争について自分なりにまとめてみました。

 

継続中のクストリッツア巡り。

『アンダーグラウンド』ではユーゴスラビア、『ライフ・イズ・ミラクル』ではボスニア紛争と、記事にするにあたり、背景を調べてきて、わかってきたことを整理したいので備忘録も兼ねて一旦ここに落としていこうと思います。

理解途中ゆえ、間違いもあるかと思いますが、そのへんはわかりしだい修正していきます。

まずは、前にも載せた即席年表を加筆して再掲載:

1918年 第一次世界大戦後、セルビア人/クロアチア人/スロベニア人で構成されるユーゴスラビア王国建国。
1941年 第二次世界大戦、ドイツ・ナチスのユーゴスラビア占領。チトー、パルチザン部隊創設。
1945年 6つの共和国からなるユーゴスラビア連邦人民共和国建国。
1953年 チトー、ユーゴスラビア初代大統領に選出。その後終身大統領へ。
1980年 チトー、死去。
1989年 東欧革命
1991年 ユーゴスラビア解体へ。
10年に渡る内戦の始まり。
1991年 スロベニアの独立宣言から十日間戦争勃発。
1991~1995年 1991年6月のクロアチア独立宣言を機にクロアチア紛争勃発。
1992~1995年 1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立宣言。内戦へ。
1992年 4月、セルビアとモンテネグロによる新ユーゴスラビア結成。
1998~1999年 コソボ紛争。独立を目指すアルバニア人と反対するセルビアの戦い。
1999年 3月、コソボ紛争下でNATOによるセルビアの首都ベオグラード空爆。

2001年 マケドニア紛争。
2003年 新ユーゴ、セルビア・モンテネグロに国名変更。
2006年 モンテネグロ独立でセルビア共和国へ。

2008年 セルビアからコソボ独立。クロアチア承認。

上記を軸として整理のためのつぶやき開始。

まずユーゴスラビアについて。

1945年 、チトーのもと、6つの共和国で構成されるユーゴスラビア社会主義連邦共和国建国。

6つの共和国とはスロベニア、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア。

主要構成民族は主に5民族。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、ボシュニャク人、マケドニア人。

ユーゴスラビア連邦のリーダー的存在はセルビア人国家のセルビア。

第二次世界大戦ではドイツナチスに脅かされるがそこを統一したのがチトー。チトーはもともとはパルチザン。クロアチア人でもある。けれど、その圧倒的人望によりユーゴ全体から絶大な支持。よって、彼の存命中はその吸引力によりユーゴは安定。

もう一つ、ユーゴスラビアが安定していた要素は冷戦。大戦後、冷戦時代に突入したが、ばらばらではアメリカ、ロシア両国の脅威にさらされる危険があった。冷戦中はまとまっていたほうが安泰だった。

ところがチトーが死去し、冷戦が終結するに伴い、それぞれの民族に、自分たちでやっていきたいよね、という意識が高まってきた。

そこで、まずスロベニア、ついでクロアチアが独立を宣言。

これに、ユーゴのボスを認識していたセルビアが、みんな行くなよ、行ってしまうなよ、寂しいじゃないか、ぶっちゃけお金もなくなるしと反対したことが、紛争のおおもとの原因(トホ解釈、要検討)。

マケドニア紛争以外は基本、最大勢力のセルビア人対独立を目指す民族との戦い。

かくして内戦へ。10日間ですんだスロベニア内戦に対し、数年続いたクロアチア紛争は被害が甚大なものに。建国当時からのセルビア対クロアチアの対立も非常に重要な要素なのだけど、ここでは割愛。

この流れで、ボスニア・ヘルツエゴビナも独立を宣言。

 

ここからボスニア紛争について。

ボスニア・ヘルツェゴビナの主要構成民族はムスリム人(ボシャニャク人)、クロアチア人、セルビア人。

ボスニア戦争の軸は、独立を反対するセルビア人と、ムスリム人、クロアチア人の3民族間の戦い。

ボスニア内のセルビア人保護を理由に、新ユーゴスラビアが武力介入。戦況が激化し、ボスニア全土に広がる。

そこに国連が介入し、ムスリム人とクロアチア人を支援、同時にユーゴスラビアに外交的経済制裁。

つまり、ボスニア内セルビア人勢力の後ろ盾国家は新ユーゴ(+ロシア?)。

対するムスリム人とクロアチア人の後ろ盾はNATO(EU+米)。ムスリム人は+イスラム諸国、クロアチア人は+クロアチア。

内戦さらに激化。クロアチア人とセルビア人対ムスリム人の構図に発展。

「3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった」外務省のページより。

1994年、欧米からの圧力もあって新ユーゴがボスニア内のセルビア人勢力と関係断絶。

1995年12月、デイトン和平合意成立。ムスリム人とクロアチア人によるボスニア連邦と、セルビア人のセルビア人共和国からなる主権国家が誕生。

 

以上を踏まえて『ライフ・イズ・ミラクル』を復習すると。

ボスニア紛争時のセルビア国境近くのボスニアが舞台であり、ルカはセルビア人、サバーハはムスリム人。

ルカは、ボスニア内のセルビア人というよりはセルビアの首都ベオグラードから越してきたセルビアのセルビア人ということなのかな、そのへんの違いはわかっていないのですが(汗)、ムスリム人のサバーハを、ボスニア側に捕虜に取られた息子との交換要員として身柄を預かっているうちに愛し合うようになり、というストーリーでした。

冒頭で1992年と出る通り、ボスニア紛争の年に話は始まるのですが最初はのんびりした片田舎での比較的平和な生活が描かれるものの、ニュースの中ではしだいに戦況が深刻なものになっていき、特にボスニアの首都サラエボの状況はみるみる最悪な様相をなしていきます。(余談ですがクストリッツアって、この作品に限らず事実はテレビの中で語らせることが多い気がする)

最終的にルカは、「ボスニアは独立を手放すまいと侵略に断固立ち向かいます。若者たちは勇敢に」とキャスターが言いかけたところでテレビを窓の外にほっぽりだして銃で撃って壊してしまいます。

初見時は民族関係がよくわかっていなかったので、ただふうん、と通り過ぎたのですが、今回あらためて見てみると、セルビア人のルカがなぜそんなにサラエボの状況に怒っているのか、と、思ったんですけど、そりや当事者国だから戦争だから、身の危険に係わるわけだから、当然といえば当然なんですけど、

基本的にルカは、楽天的な性格をした、国のため、という大義で動くタイプの人ではない、息子を心底心配しているごく普通の父親なんですよね。なのでおそらくは、若者云々のくだりで放り出したところから息子のことが頭にあって耐えられなくなったせいなのだろうと。

ともかく、この映画は、どちらの国が良い悪いという描かれ方はしていない。

そこがクストリッツァだなあ、というか、あくまで戦争は背景に後退させて、ちゃんと男と女、父と子、あるいはロバの話になっている(違)。

逆に物語として昇華してくれてなければ、戦争映画としての印象が色濃く残りかねない、それほど、実際には悲惨な内戦だった。

そして現実では、セルビアが悪者のように見えることが多い気がします。

実際、国際的にはそうだったのでしょう。

 

映画はプロパガンダなのか。

記事を書くにあたって、クストリッツア作品を観返し、さらに自分が旅行で目にしたものを思い返すにつれ、旅の話だけさっさと書けばいいものを性分なのか歴史背景をおさらいしたくなり、さらに関心が高まり、

観たいと思いながら未観賞だった 『ウェルカム・トゥ・サラエボ』や『ノー・マンズ・ランド』など、この地域を扱った映画を立て続けに観てみたんですけど、その結果、プロパガンダということでいえばこういう題材では西欧が撮った映画の方がプロパガンダ色が濃いような気がしています。

ウェルカム・トゥ・サラエボは、マイケル・ウィンターボトム監督の1997年製作のイギリス映画で、紛争まっただなかのサラエボから一人の少女を救出する過程で抱く、イギリス人ジャーナリストの葛藤を描いた、当時のサラエボの悲惨な状況を伝える良作

ではあるのですが、明らかにセルビアが悪者として描かれている。

一方、ノー・マンズ・ランドは、ユーゴスラビア出身のダニス・タノヴィッチ監督の2001年の映画で、これもボスニア紛争中のセルビア人対ボスニア人の対立を扱った話ですが、これは、どちらが悪という書き方はしていない。

そりゃあハッピーエンドじゃない。そして誰も救われない。のだけど、誤解を恐れずにいえばそれがいい、人の心を揺り動かすのは何も派手な爆発や音楽ばかりじゃない、そんなふうに思える、静かだけど見応えのある人間ドラマで、ボスニア人とセルビア人だけでなく、イギリス、フランス、ドイツなど携わる西欧の描き方もうまいんですよ‥‥‥

などと明らかにどっちが好きかばればれで、そんな不公平な観点からの意見なわけですけど、

立て続けにみたせいもあるでしょうが、ウェルカム・トゥ・サラエボの方が涙目で現地をみている印象が大きく、うちの国はこういう姿勢だったんで、というのを示しているように私には思えました。ラストに流れる曲が、アルビノーニのアダージョというのがまたいかにもというか(以下自粛)

どこまでをプロパガンダでどこまでがそうでないかの線引きは難しいな、というのはあるのですけど、戦争という各国の思惑のある事象を、骨格がようやくわかりはじめた人間が語るのは、慎重にならざるをえないのですけど、

ユーゴの歴史をみていると、内戦は、独立する側に気持ちをおきがちである反面、セルビアの、みんな行ってしまうなよ、という魂の叫びも聞こえるような気がして、やるせない気持ちが増すというか、まあでも、きっとこれは感傷なんですけど。

つらつらつらつらとまあまとまりがない内容になってしまいすみません。

ともかく、

当事国の監督の方が戦争を「判断」せずに「物語」を描こうとしているのに対し、外側の国の作品にむしろプロパガンダ臭を少なくとも自分が感じたことが興味深く、とりあえず、おさらいした背景とともに残しておきたいと思ったのでした。

舞台である国の歴史や時代に映画発端で興味がむく、ということは結構あるのですけど、それに合わせて調べて整理してそれが定着するとその国が自分の中で育っていくというのはある。

映画や旅発端のことが多いのは、視覚で記憶することのインパクトの大きさを示しているのかなあと思いますが、小説でもありうるし、何が発端でも、自分の中で育った国は他人ごとではなくなっていく。

現在、旧ユーゴスラビアであった国々はEUへの加盟、申請も進んでいるし、国連などの監視機構のおかげでとりあえず均衡が保たれているようです。

ですが、実は結構あやういバランスのうえに成り立っているような気もしないではなく、世界がざわついている昨今、どうかそのままで行ってほしいと、セルビア、ボスニア両国に行ってきた今、思います。

 

 

参考にしたサイト

歴史まとめnet ユーゴスラビア内戦
http://rekishi-memo.net/gendaishi/yugoslavia_civil_war.html

Teruo Matsubaraさんによる旧ユーゴスラビア民族紛争に関するページ
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/World/East_Europe/Yugo/Menu.htm

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関するページ
https://bushoojapan.com/tomorrow/2015/12/14/65319

その他外務省、ウィキペディア、コトバンク(ブリタニカ)など。現時点で情報源はすべてネットであることをお断りしておきます。

p.s.
ものすごく短期間の旅行者による視点にすぎないのだけれども。それに、ウェルカムトゥサラエボは実話度が高いので、そこ加味しないとフェアじゃないかもですが。