今日は不謹慎かもしれないことを書く。
旅に出られないのは残念ではあるのだ。実際。
旅は私にとってはいつしかできないと困るほどには人生に組み込まれるようになったので、もっと嘆いていてもいいのかもしれないけれど、今の心境を正確にいうなら、悲嘆からは遠く離れた場所にいる。少なくとも今すぐに旅ができないということに関しては。
いくつか要因がある。
ひとつはタイミング。
インドに対する気持ちを書き出すと長くなるので、ここは好きという言葉でまとめておくけれど、その好きな国であるインドを含む3カ国に昨年末に2ヶ月行ってきたばかりであり、自分的には今回もかなり密度の濃い旅をできたので満足していたこと(胃は弱音吐いたけどね)。コロナ禍が始まったのはその効力がまだ消えていない数カ月後であったこと。
さらに、来年あたりから国外に住む計画をいよいよ実行に移そうとしていて、今年2020年はどっちにしろ、お金も貯めたいし、旅はおとなしめにしようとしていた年であったこと。行くとしても短期か国内にとどめておこうと。
オリンピック開催年だったこともある。オリンピックには正直1ミリも興味はないのだけれど、その頃の外国人観光客にあふれるであろうトーキョーには興味があった。
いろんな見方はあるだろうけど、個人的にはインバウンドに湧く日本が嫌いではなかった。自分も異国を旅するのは好きだけど、海外の人が日本を訪れて、こちらにとっては日常であるあれやそれに興奮したり感動したり変だと感じたりをみるのも好きだった。ようこそ、ぜひ楽しんでいってください、と思っていた。
オリンピックはそれを観察できるよい機会だと感じていた。そんな東京界隈をみるためだけでも、オリンピック時期は日本にいよう、と決めていた。おかしな思考かもしれないけれど。その点でオリンピックがなくなって(正確には現段階では延期になって)残念ではある。
だけど、同時にそれがなくなるほどの大きな変化が起きている、オリンピック延期は余波にすぎず日本だけではなく世界全体に空前の変化が急激に起き始めている、ようだ、ということもまた、まったく別の次元である種の感慨、もっとはっきりいえばエキサイトに近い感情を私にもたらした。
これがもうひとつの要因。
私にとって2020年は世界を観察する年、だ。旅と並列で書くのは変かもしれないけれど、人によっては不謹慎と思うかもしれない、けれど、動き始めた世界を観察する、もちろん自分も巻き込まれながら、というのもまた、一つの大きな関心事になっていることを認めないわけにはいかない。
コロナ禍を皮切りに、そして現在もそれを下地に、互いの相関性はともかく、あらゆる問題が一気に噴出してみえる年。今までとこれからをこれで区切る意識にならないとしたらおかしいだろう、というくらいに。
数年前からなんとなく、世界は動きの少ない時代から変化の時代に突入したのかもしれないなあと思っていたけれど、今年開けてのドラマチックとも言える変化に、いよいよ来たのか、と思った。そのトリガーが感染症かあ、コロナかあ、そうきたかあ、とは思ったけれど。
新型ウイルスのパンデミックによる健康脅威を発端として、発端のように見えるけれどもっともわかりやすい表出のきっかけに過ぎず、どちらにしても何らかの形でそろそろ来ることになっていた(と今となっては感じる)変化の時期がいよいよきただけなのだろうという気がしている。
他に良い言葉がないので、一言で言えるある意味便利な「コロナ禍」を使っている。けれどもう新型コロナ/covid19は私の中で中心にはいない。経済もそうだけれど、人々の心への影響の方に関心がむいているかもしれない。
世界の変化は人々に不安ももたらすかもしれない。「かもしれない」じゃないな。そりゃもたらすわ。というか、私にも影響がなかったかというと、始まって早々に自分でもわかりやす!と思うほどには派手な影響があった。一応途方にくれたし、今も幾分取り直しているけれど従来通りではない。それでも、結果的にはこれからを考える時間ができてよかった。どっちみち整理も必要な時期だったので。まあそのへんは長くなるからはしょる。
ともかく。
自分もまわりのひとの健康と命を害しないよう気をつけることはするけれど、気をつけつつ、放射線状に広がっていく影響、世界のうつりかわりを、自身への影響と内面の変化も含めて観察する時期、と捉えている。
covid19はただの風邪運動も起きているけれど、ただの風邪かもしれないしそうでないかもしれないけれど、今の時点で正解探しなど無意味だし、真実はともかく、重症化し死に至る人がいるのは間違いない。確率だけで話していい話でもない。割合がどんなに少なかろうとその何%に、亡くなってほしくない誰かが入るかもしれない限り、現時点で軽く見る気はない。
その割合の中には、もちろん自分だって入りたくない。
でも、自分に関しては、入ったらその時はゲームオーバーなのだとも思っている。
上の記事にも書いたように、自分自身に関しては、長生きしたいけれど、それはこの世界がどこまで変わるのか変わらないのかを肉眼でどこまで見られるかだけだと言い切ってもいいくらいなので、途中でおいとますることになるなら、それはそういうことなのだろうので、残念だけどしょうがない。苦しみたくはないけれどね。
これはコロナ関係あるなしに常にそうではあるのだけれど、今年はコロナによりそれを意識する度合いが格段に高まっている。
わたしは見届けたい。だから死なないように万全は期すし、人にもそれを与えない行動を優先する。
ただ、心が死ぬのはやだから、長引くとなったら、できるところで旅心にも栄養はあたえてやる。例えば近場散策とか。実際誕生日が近いので、そのあたりでこういう機会がないととまらないだろう居住地のホテルに泊まってみようと思っている。あとはキャンプは自粛明けに一度したけど、ソロは今年まだなのでそれもやりたい。
ほかにも、生活レベルでは、いくつか目標をたててちまちまやっていることもあるし、note(※)も始めちゃったし、むしろ忙しすぎるくらいだ。まあ旅に出るわりに、家にいるのもちっとも苦じゃないインドアイントロバートな性質であることも助かっているかもしれない。
とにかく、今年は、仕事も減ったのに(苦笑)、なんだか忙しい。そして、全体的に悲嘆からは遠い場所にいる。
長く続くと、さすがに、むむう‥‥‥という状態に陥ることもあるかもしれない。いやあるだろう。海外に住むという、コロナ禍前の近年では自分なりに大きい計画が一旦保留になっていることに残念だと思う気持ちはゼロではない。年齢を考えると早くいきたい、というのもなくはない。
でも旅や滞在も含め、海外渡航状況も、ビザの優遇が今まで通り復活するかかなり疑問だし、マスクをつけた旅、入国時のワクチン接種の必要性など、国の往来が可能になっても、変化は避けられないだろう。少なくとも数年は。
流通の滞り、それに伴う輸出入の変化、金融・経済の変化、それに伴う各業界への影響、とくに観光業への影響もとても気にはなる。個人レベルでの仕事/収入への影響を考えもする。旅のスタイルは大きく変わる可能性がある。もうLCCでさっと飛ぶ、みたいなカジュアルな旅はできなくなるかもしれない。個人旅行もどこまでできるか。もちろんたいして変わらないでくれればそれはそれで本当に嬉しいけれど。
この時期を耐え凌げばすべては元通り、という感じはとっくに捨てている。悲観しすぎも楽観しすぎもしていない。私たちは未知の道を進んでいる。長期戦は覚悟している。
そういうすべてをひっくるめて世界を観察する。死んだらおわり。私は観察していたいので、死ななければひとまずはオールOKとして、自身の今できる範囲で自分を楽しませながら、しばらくは世界のうつりかわりを観察することも楽しみごとのひとつとしてやっていく。現時点ではそういう感じでいる。
とほ
(※)本記事は、2020年7月から2年間書いていたnoteからの移行記事です。