今年の3月以降の変化で、積ん読をせっせと解消するよい機会だと思ったのに、意識がそちらに向くということは取りも直さず芋づるが伸びはじめるということで。伸びた蔓はたぐりよせたくなるし、その先にまるまるとした芋がなっていれば収穫したくなる。逆に増えてしまった。
芋づるってつくづく不思議だ。伸びの方向をみれば自分が今何に関心を持っているか如実にわかる。表向きいくら「自分は今✖️✖️に興味があります!」と敬礼してみせても、芋づるの伸びる先を見ればたちどころに真実がわかる。芋づるは土の中にあるから掘り起こされなければ人にはばれないが、畑主である自分をだますことはできない。
映画種が伸びなくなった。圧倒的に外来種が多かったとはいえ、各種大豊作だった時代の記憶もあるから寂しい気持ちはあるけれどしかたがない。伸ばしたいけれど両方は追えない。わたしの芋づるは今、本種の栄養を取りたくてしかたないらしい。ただ遅読ゆえ、映画と違って「完了」印をつけられるペースが遅いのがもどかしい。かといって物語は速読したいわけではないむしろ好きな物語ならその中にできるだけ長く留まっていたいので、読み終わりそうになるとむしろ私の中の節子が全力で「いやや」とあらがっているのを感じる。
もっともっとと掘り進めて収穫したい気持ちと1つの芋を大切に食べたい気持ちと。
とはいえ映画も積んDVDや積ん配信はあるんだけど。放置めにはなっちゃうだろうけど、少し土地が痩せてしまうだけですぐに枯れるわけじゃない。でも今年は少なくとも観るとしてもほとんどインド種だけで終わりそうだな。最近観たネットフリックスのLudoはおもしろかった。今はこの監督追いがしたくなっているところ。というかしている。
映画でも本でも、興味の対象が育っていく話の時に芋づるという言葉をよく使ってしまう。まあまったくもって目新しい表現ではないけれど。でも芋づる式は興味を広げていくよい、よいというか、ごく自然な形だ、私にとっては。
私は映画では割と監督が種芋になることが多い。俳優も種芋になりやすいけど監督芋が一番追いやすいかな。気になるとコンプリートしたくなる。一方、本の種芋は・・・いや、種芋の話は長くなるからまた別の機会にしよう。
とにかく、そこに意識を向け続けるということは、アンテナもするどくさせるし、アイデアも呼び込みやすくなる。結果的に蔓が育つ。
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それはそうと、トップ画像にわざとらしくあげたけれど、岩波文庫の紙の手触りってなんであんなに絶妙に心地よいんでしょうね。文庫本を手に包む幸せを感じさせてくれる。
旅先で日本の本を読んでいると、海外の人が興味深そうに覗き込んできたり、縦書きについて質問してきたりして、話のきっかけになることが時々あったけど、そういえば、他国の書籍に比べて、日本の文庫本のサイズって独特だよなあ。この掌におさまる形が愛しい。増やすわけにはいかないから電子書籍に頼らざるを得ないところはあるけれど、でもこれだけはというものだけでもいいから、やはり紙本をできる限り手元に残しておこう。
とほ