私は書くことが好きなのか。
「書くことが好き」と正面切って言えないところが私にはある。いつかの記事で書く人への愛を語っておきながら、自分自身については、書くことについて、狡猾にも、好きという言葉は使っていない。
物心ついた時から、というのは言い過ぎにしても、文字を学んでから、強制されてしかたなくではなく、自発的に、勝手に、頼まれもしないのに、書くという行為をやってきたタイプの人間。にもかかわらず、書くことに対して私が抱いている感情は、好きとはちょっとちがう。逃れられないに近い。離れられるものなら離れたい、という気持ちがどこかにある。
書くのわたし苦手で!とあっけらかんと笑って、書くこととあまり縁がない人生がよかった、とすらどこか思っていたりする。書かずに太陽のようにあっけらかんとした人生を送っている人をどこかで羨ましいとすら感じている。生まれ変わりがあるのなら、過去はずっと書くの周辺にいたような気がする。生まれ変わりがあるのなら、次の人生は書く以外がいい。だからこれは、鎖なのかもしれない。
一方で、私は言葉に対する偏愛めいたものも持っている。
言葉に対する愛着(執着)と書くことへの好き嫌いを同じ土壌で話していいのかどうか。しかし書くと言葉は切っても切れない。そして、私が執着している言葉は、多分、読み書きする方だ。話し聞きする方でなく。音として認識する言葉にも愛着はあるけれど、平面に置かれた言葉を、書いた人の魔術と自身の想像力とで立体化させるのが好きだ。つまり読むのは文句なしに迷いなく好きだ。
逆に内側にある言葉以前の何かを形にして平面に落とすとすっきりはする。つまり書くという行為。そのすっきりを好きとあらわしてはいけないのか。好き、うーん、好き、なのか、なあ。そこで逡巡してしまう。好きというよりは、愛憎のような感情に近い。できることなら自由になりたい、開放されたい。でも離れると居心地悪く、結局戻ってきてしまう。
かといって、いくらでも書けるわけじゃないのだ、私は。長文を書くには相当なエネルギーがいる。時間もかかる。どちらかといえば好みとしてはできるかぎり究極に削ぎ落としたい欲求がある。なら、むしろ書かなくったっていいのでは? いっそゼロにして、扉をあけて外に出て行けばいいのでは。
でもできない。気づいたら書いている。堂々巡り。もうそろそろ勘弁してください、なんて思いながら。なんだそれは。自分でもほとほとよくわからない。
書くのが好き、と、迷いなく言って、淡々粛々と書き進めていく月の灯も、書くのはからきしで、と、あっけらかんと言って、言葉以外の方法で己を表現するを選んだ陽の光も、同様に眩しい。私は塔の中で鎖を引きずったまま、いつかこれを断ち切りたいと願っている。
とほ