子供の頃は生きづらかった。か。

問わず語り

 

子供の頃は生きづらかった。

と書きかけて、いや、そうかな、と根底からくつがえすなど。

とある文章から触発されて、わたしも生きづらかった、といいたかったらしい。いっぱしに生きづらいを通ってきた、といいたかったらしい。

厳密には、子供の頃はあれだけ生きづらかったはずなのに今はきついことがないわけではないけど生きづらくはない、と書こうとしていた。で、書いてみて、内側が、いやちょっとしっくりこない、と反発した。今が生きづらくない、は、まあ、そう。それなりに唐がたっておりますし、ある種の慣れといいますか、やりすごし術といいますか。問題は、生きづらかった、の部分。

否定しなくてもいい。確かに生きづらさはあった。ただ、名前になる以前のむなしさのような不安のようものも抱えながら、同時にどうしようもないほど能天気にほんわりと幸せな子供でもあった。

認める。私は知っていた。子供の頃にすでに、幸せな感情は、なんてことのないいつもの日に訪れることを。理由のない、理由などないように思える、どこからきたのかわからない至福、だけど舞い上がってもいない、どこか落ち着いた、大人びた、満ち足りた感情は、その日の気候くらいは関係していたかもしれないけれど、晴れた、暑くも寒くもない日に、なにがきっかけでもなくふと自分がそのさなかにいることにきづく、そういうようなものであることを。きっとその時点で私は、自分の人生がつまりそのようなものであることを知っていたんだ。

私は決して強くはないと思うんだけど、わりとすぐになぎ倒されてもきたんだけど、それでもある種の強さがあるとしたら、茎の弾力性が半端なくて台風のあとにいつのまにか復活している草花みたいだと思っていて、最近、レジリエンスという言葉を知って、なるほど、多分それ、と思った。子供の頃はひどく怖がりで泣き虫で途方にくれていたけど、同時に内側に常にほんのり明かりが灯っていた、その感じは今も変わってないし、それがある限り、多分どこでも何があってもやっていける。

 とほ