昨日の続きのようなそうでないようなつらつら。
生き急ぐと死に急ぐという言葉について、思いを巡らすことがある。意味の違いよりは、意味が違おうと死までの距離は同じなのではないだろうか、というようなこと。
昨日、『LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界』の著者デビッド・A・シンクレア氏の東洋経済の記事で、シンクレア氏は、健康なままで人生120年時代が到来する、といい、その秘訣は、食事の量や回数を減らすことだと書いてあった、と紹介した。
何千本という科学論文を読んできた。そんな私からのアドバイスの一つは、「食事の量や回数を減らせ」である。長く健康を保ち、寿命を最大限に延ばしたいなら、それが今すぐ実行できて、しかも確実な方法だ。
それが正しいかどうかは横に置き。ただ、食を減らすことが体によい、というのはある程度わたしはすとんとくる。
というのは、一時期生活実験として、しばらく1日1.5食を続けたことがあり、その時にメリットしか感じなかったからだ。
そもそも断食でもなく1日1食でもなく1日1.5食というなんとも微妙、いくらでもずるっこできそうなあたりで実験するのが私クオリティなんだけど、主旨としては一日の摂取量を減らそうとしたわけで、その時に、集中力があがった、午後の睡魔が減った、朝寝坊も減った、メイン食が何食べてもおいしい、他にあてる時間が増えた、おまけに食費も減ったなど、メリットばかりだった。
じゃあなんで今してないんだ、という話なんですけどね。コロナで暇になったせいということにしといてください。
あ!今日も気づいたらこんなものを手が勝手に!👇
と、ともかくですね。
食の調整がカギ、というのは、昨日書いた日本人の長寿と食生活の相関性を考えても、上記した自分の体験からも、すとん、とはきたけれども、そして、この先本当に、長寿のためには食を減らすのが正しいと科学的に証明されたとしても、さてそれを選択しなければならないかというとそれはまた別、とも思うのだ。
食べることが死ぬほど好きで、グルメで、それを自分から取ったらストレスを感じるという人は、食を厳密にコントロールする生活ではQOLは間違いなく下がるだろう。好きなものを好きなだけ食べる生活では、その結果生活習慣病になって早く亡くなってしまうことはあるかもしれない。でも、本人が本望だった場合、誰もそれを「まちがっている」とは言えないんじゃないか。
食だけじゃない。他にも長生きのためのなんらかのファクターが見つかり、自分はこれだけあればいい、これをやっていれば心の充実につながる、という何かをセーブして生きねばらないことになった時、その生き方は正しいといえるかどうか。
寿命の長さは幸福度には直結しないかもしれない。長く生きるも短く生きるもどちらが正しいとはいえない。少なくとも当人以外は決められない。
ただ。同時に、自分の幸福は自分以外の他者がもたらしてくれるもの、医療や政治がどうにかしてくれるもの、というあり方だと、今後どんなに医療や化学が身体の健康をサポートしてくれる世の中になっても、本当の意味で幸福を感じるのは難しいだろう。とも思う。
幸福度は長さに関係なく、最終的には各人しだい。
とほ