同じ生を感じるなら、ラテンよりインドのノリなんだよなあ…。

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インド関連雑記

 

語ります。

思えば最初からだ。自分との親和性のことは気がついていた。

どんどんインドに絡めとられていく気がする今日この頃だけど、たしかに最初に足を踏み入れたのはわたしの方だけれど、赴かなければすべては始まらなかったのだけれど、だけど本当はインドの方も手ぐすね引いて待っていた気がしてしょうがない。感情に揺さぶりをかける出来事がお膳立てされていたというか、他の国では時に難しいと感じる出会いが簡単に起こりすぎというか、インドという国がそういうことが起こりやすい国であることは確かなのだろう、とはいえ、わたし仕様の出来事がお膳立てされすぎていた、ような気がしてしょうがない。

それとも、これも、恋に落ちた人間特有の、相手も自分を好きに違いないという錯覚なんだろうか。いずれにしても、わたしは、国に恋することが多い気はするけれど。国というものを好きになるとき、脳内に放出されているケミカルは、恋愛と同じケミカルであるような気がしている。それはともかく。

この期におよんで、自分でもなぜこんなにあらがっているのか謎だけど、うう、書きとうない、が、書く、書くぞ、多分わたしは、呼ばれた人間のひとりなのだと思う。ああ・・・言っちゃったよ。

でもしょうがないもう。言っちゃう。わたしは呼ばれていたのだ。抗ってしまうのは、それが世間であまりにもよく耳にするステレオタイプなそれだと思っているせいだ。かっこわるいと思っているのだ。呼ばれる、だとか、人生観が変わる、だとか、いかにもっぽいし、別にそういうんじゃないしー、などという冷めた態度で、本人はそのつもりで、ほら、いったんは行っとかないとさ、というような大義名分を掲げて、半分いやいやで、内心どっきどきしながら、はじめて飛び込んだのが5年前、だけどあの時からはじまっていたのだ。インドはわたしを手ぐすねひいて待っていたのだ。

そして現在。この国を知れば知るほど、深みにはまっていくほど、脳内の1つのパーツで、1つのスペースで、考えるのが難しくなっている。別々の部屋が必要だと感じるし、勝手にできあがってもいく。多様性というのはくさるほど言われていることなのだけれども、それを何度も何度も実感しなおすはめになっている。バックパッカー的な旅で出会うそれと、今世界の中でその位置を少しずつひろげつつある潜在力を秘めた国としてのそれを、同じ角度同じ捉え方で見ること、同じ部屋にあるものとして見なすのは無理がある。見なそうとしても、どうにもたちいかなくなる。と同時に、まったくもって矛盾するようだけれど、そのどちらもがやはりインドであり、つながっていないかというとつながっているのだ。それもインドであれもインドなのだと思える。

ただ、まだこの「思える」の部分はわずかな旅経験と現時点での微々たる知識と自分の感覚や直感によるものであり、それをうらづける土台の部分が圧倒的にまだまだ足りないことも逆に実感していく。それがまたもっと知りたいという欲求をかきたてる。映画はとても有効な手段だ。だけどそれだけにとどまらなくなり、手に取れる本も読んでみる。インド人の(比較的まともな)知り合いに質問してみる。座って得られる知識が増えてくれば今度はまたその場に身を置きたくなる。そのローテーションができはじめている。

本当にあのエネルギーはなんなんだろうと思う。問題も含めたなにもかもの層の厚さ。それと「他」との融合。受容。正確には、受容というよりはもっと消極的な、放置、保留、というほうが近いかもしれないのだけど。無責任なそれも含む一方で、その保留に温かさも感じる。感じるのはLet it beという空気。そのままをそのまま受け入れる力は、他国より強い気がする。単に収集がつかないだけなのかもしれないけれど。

少し前に読んだ『すごいインド: なぜグローバル人材が輩出するのか』という本の中に「新しいインド」と「古いインド」という言葉があった。あらく要約すると、現在のインドには2つのインドが共存していて、カーストの呪縛が強く教育水準も低く人々が貧困の中に暮らしている「古いインド」、都会を中心にカーストの意識が薄くITをはじめとするビジネスが台頭し実力重視で教育水準や英語力の高い人が多い「新しいインド」がある、と。その共存はわかる気がする。まだまだ古いインドが強いけれど、今後新しいインドが台頭していくだろう、という。(題名は少し盛ってますが笑、インドの現状が理性的にわかりやすく書かれている良書です。著者のサンジーヴ・スィンハ氏は在日歴の長いインド人実業家で、日本にも造詣が深く、もうひとつの著書『インドと日本は最強コンビ』という題名には、読了後うっかりその気になりそうになりました)

どちらがいい、といえるだけの材料は私にはない。古いインドと新しいインドがあるのなら、わたしは古いインドを知らない。旅人目線の古いインドを懐かしがる声も聞いたりするけど、私は知らないし、知らないものはなつかしがれない。この時点の、目を向けた時にそこにあることに気づいた、今のインドに興奮しているのだ。とはいえ、ほんの5年前ですら、今の急速に変わりつつあるこの国ではすでに古いインドなのかもしれないけれど。

ちょっとだけ蓄積されてきた知識をもとに得た妄想に興奮するあまり、ちょっと寝ぼけたことをいってしまうけど、今世界がかわりつつあって、大国がこの先うつりかわっていって、もしかして、もしかしたらだけど、いつか、インドの時代がくることさえあるのかもしれない。今は問題が山積みだとしても、すべてがもし反転したら。人口をささえる若いエネルギーが、犯罪や性の暴走ではなく、もっと教育がすすみ、もっと成熟し、違う方向に発露しはじめたら、ちょっと、かなり、おもしろい国になる。いや、今だっておもしろすぎる国だけど。

あの国が今後、どの方向にどのように進んでいくのだろうと思うだけで、今はわくわくしてしょうがない。他の国の行く末を、みじんのちりちりした違和感もなく、興奮をもって見守っているなんて、本当にちょっと、どうかしてると思う、今。つまりは、多分、きっと、今が蜜月なんだろう。気になってしょうがない時期なんだろう。

そうそう、あと、ダンス。映画の話になると、意外に踊らない映画もあるな、ということをしった今でもついダンスの話をしてしまうけど、それもこれも自分がとりこまれてしまったせいだ。最初はあれだけ、ないわ、だったのが、今ではすっかりやられている。ないと、物足りなくすらある。インドから感じとるものをひとことで言えばまぎれもなく「生」なのだけど、ダンスと生はみっちりとつながっていて、ダンス自体がそもそもそういう性質なのかもしれないのだけど、なんだろう・・・フラメンコとかサルサではないんだよ、なあ。響くのは。それに、インド映画のダンスシーンを見ていると男性性と女性性の強い交流を感じる。

いずれにしても。かの国の生きるエネルギーにわたしはもう取り込まれてしまっている。こんなにも、普段意識していない「生きている」を実感させてくれる国はほかにちょっとない。わたしの場合は、旅から入っての映画はまりだったけど、入りがなんであろうと、インドという媒体になんらかの形でつながった瞬間に受け取るものは結局同じな気がしていて、つまりそれは、生きている生きている生きていると、リフレインしながら流れ込んでくる圧倒的なエネルギーなのだ。

それをうっとうしく感じて、異物としてはじいてしまうのか、それとも心地よいものとしてすいすい吸い込んでしまうのかで、はまるかどうかが決まる、のかもしれない。それを心地よいと思う人がはまっていくのかもしれない。

 

 

妄想炸裂。