旅中、1冊はSF古典を読む。

※当ページには広告が含まれています※
※当記事には広告が含まれています※
旅語り

いつからだったか、旅中に読む本の中に必ず1冊SF古典を含めるというマイルールを作った。

最近は電子書籍という便利な旅のお供があるので、重量の問題で持参する本を厳選する必要はなくなった。電子出版さえされていれば何冊でも持参可能である。加えて、保険として紙の本も1~2冊持っていく。ただ、重量的な制限はなくなっても時間的な制限がある。結構いそがしい旅をする人なので、1~2ヶ月の期間があっても読めるのはせいぜい2~3冊、マックス5冊・・・は嘘、ないな、読み始めても読みかけのまま持ち帰ることになる。

それで、その平均2~3冊の中に必ず1冊、SFの古典を含めることにした。具体的な理由は忘れたけど、人と話していて、そういえばあちしSF好きだといっているわりに古典を読んでないよなあと気づいたとかそんな感じではなかったかと思う。

SFというジャンルは嫌いではない。好きである。映画であれば、はっきりくっきり好んでみるジャンルである。その中でも好みはあるけれど。たとえば、大きな声では言えないけれど星戦争は全編スルーしてきている。なんとなくスルーでここまで来てしまった。好きなのはマトリックスとかインターステラーとかあのあたり。どっかの星に行って帰ってくる系はだいたい好きだし、月に囚われた男の話も好きだったし、銀河でヒッチハイクするようなあほなやつも好きだし、ガンでカタなやつも好きだし、電気羊も2001年もソラリスも好きの範疇にある。DCは馴染みが薄いけれど、マーベルユニバースはなんだかんだいってほぼ観ている。

ちがう、今日は映画の話じゃないんだ。

小説も雑食なのでSFも読む。中学にあがって最初に図書館で読みまくったのは星新一のショートショートだった。あとは、これ書くの実はめっちゃ恥ずかしいのだけどコバルト文庫にはまっていた時期があって、その時に新井素子さんの本は網羅した。恥ずかしいのは新井素子さんのことでも年がばれることでもない、コバルト文庫少女だったこと。いいじゃないか、コバルト文庫少女だって。全国のかつてのコバルト文庫少女に失礼だ、あやまりなさい。ごめんなさいね、くだらない自我が。

そこもいいんだ。長いんだな、前置きが。

そんな中でヴォネガット、フィニィ、PKディック、JPホーガンなどに手をだしてはきたけれど、気になったものを気になった時にぽつぽつとという感じだったし、そういえばアイザック・アシモフやアーサー・C・クラークといった基本中の基本を全然読んでないなと気づき、読みたいな、となった。のはいいけれど、他にも積ん読している本はたくさんあるし、当時はまだまだ映画優先時期だったため、このままだといつ読むかわからなかった。

そんなとき私は外的な「期限」を利用する。わかりやすいのは図書館やレンタルの返却日。このひとさまが設定した締切りの強制力を使う。外的な期限がない場合は自分で作り出す。ここからここまで、と区切られてある期間をみつけだしてそこにあてる。そういうわけで、年に1回は出ることにしている1~2ヶ月の旅の間に読むというルールを作り出したのであった。

ではどんな本を選択したのか。

1冊目:ジョージ・オーウェル『1984年』(2015年、インド)
2冊目:アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(2016年、セルビア)
3冊目:ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(2019年、インド)

 

1冊目の『1984年』は、言わずとしれたディストピア小説である。チェンナイの安宿で読んだ。読み終わって悲惨な気持ちになり、どうしてこんな本を旅のお供にしてしまったのか、と後悔した。少なくとも、インドをバックパッカー旅する人ならだれでも経験があるだろう下手したら落ちてきて惨劇がおこるんじゃねかとうっすら想像してしまう天井の爆風ファンに吹かれながら読む本ではなかった。おまけに、この旅の始めに出会ったアマン氏と遠隔で喧嘩の真っ最中であった。なんでこんな本読んだんだ、ビッグブラザーめ・・・という気持ちになった。←?

2冊目の『幼年期の終わり』は、これもバッドエンド、とは言えないまでもけして明るい気分で読み終える話ではない。読み手の受け取り方によるのだろうけど、深いというかかなり哲学的。けれど、この時のセルビアの旅がうまくいっていたこと、滞在していたエミールクストリッツアの作った静かな映画村が居心地よかったこと、この旅であわせて読んでいたのが『バガヴァット・ギーター』だったこともあってか、非常に有意義な思索時間になった。

クストリッツア巡り in セルビア:映画村クステンドルフその2
クストリッツア巡り in セルビア。 映画村クステンドルフ続きです。 その1はこちら。 映画村内にあるス...

3冊目の『ニューロマンサー』はサイバーパンク小説の古典である。古典にいれていいかは謎だけど、サイバー領域は進化のスピードが半端ないので問題ないだろう。ゴア・パナジのバススタンドで、夜行バス出発までの時間つぶしに構内の食堂でチャイをおかわりしながら読んだのだけど、ここはインド、なのにでてくるワードがチバシティだったり日本の近未来都市を彷彿とさせるもので、あまり明るくはない店内、蒸し暑さ、その日1日動き回ったあとの疲れ、チャイの甘ったるさなどと相まって、なんだかものすごくシュールだ、と感じたのを覚えている。実はこの後、旅中に時々発症する日本人作家の小説が読みたい熱が出てしまい、期限を利用するといいながらこの本は全部は読み終えられなかったので、残りは帰国後に読んだ。

ともかく。このように、SF古典を旅中に読むと、選択がなかなかリスキーではあるけれど、旅の風景や空気と交わって不思議な記憶として残りやすい気がする。これからも懲りずに続けていこうと思っている。とりあえずkindleには、いつかの旅用にフィリップKディックの『高い城の男』を捕獲してある。

とほ

本を置きざりにする場所を探していた。
10年前の長旅の話。 旅がはじまって2ヶ月目。 ラオスの4000あるといわれる島のひとつの一泊2ドルのバンガローで、...
本が旅をするには人の助けが必要。
10年前の旅では本が旅をする姿は実際よく見かけた。本が旅人の手から手を渡っていく、ということはけしてめずらしいことじゃ...