凝りもせずに揺れている。
ここ数日、インドのお祭りからのお祭りつながりでタイのお祭り、からのタイつながりでバンコク滞在レポと、連想形式で続けていくスタイルで記事を書きながら気づいたこと。
一連の記事はすべて「です・ます」調、すなわち敬体であった。これは最初にそうしようと決めたわけではなくって、あ、今回敬体になっているな、と途中で気づいた次第。
映画の海外ロケ地巡りを主軸とするブログでは(※)基本的にずっと敬体でやってきた。その方がしっくりくると感じたからだ。ただ、例えばカミーノ中の毎日更新日記やつぶやき要素の多い記事では、「です・ます」ではしっくりこないと感じて「だ・である」に切り替えたことはある。
一方、noteでは(※※)、始める時に「だ・である」調すなわち常体で行こうと決めた。内面吐露をブログより積極的にしていくつもりだったので、制限を設けずに文章を流していくのにしっくりくる形は常体だと思ったからだ。テーマを「物語、言語、映画、本に旅」という5要素を軸にすると決めていて、それってでも実質なんでもありで、とにかく文章を書くを止めないことが最優先だった。
そのように、媒体によってざっくりとした基本方針はある。でも厳密じゃない。統一したほうがいいのだろうか、と思うこともあるけれど、内側との乖離が大きいとうまく進められない部分は確かにあり、統一するよりはその時々に出てきた文体キャラでいく方がいい気もしている。
で、今回出てくるにまかせたら敬体がでてきたわけなのだけど。出てくるにまかせた時にするりと「だ・である」を選択しているときと「です・ます」を選択している時のちがいはなんだろうか、と考えた。
「です・ます」がでてくるときは知らず知らず対「外」を意識している時のようだ。旅でもそれ以外でもレポート的な要素があったり、情報提供要素が含まれるものだったり、好きに書いてるようでこれでも客観的に人に何かを紹介したい気持ちがどこか働いていると、です・ますが、お呼びですか、と出てくる。
一方で、「だ・である」が出てくる時は主観的、内側ありきだ。そうはいってもオンライン上に出す以上は多少なりとも人の目を意識してはいる、していないわけがない、誰にも見せないモーニングノートの闇だだもらしとは違うのだ。
ただ、内からでてくる言葉を人の目を意識しすぎることによって遮られたくはない、というのはある。です・ますだと脳内編集者がもう少し幅をきかせてそうな気がするが、だ・であるでは己の立場の方が強くて、編集者が「でも」とか「それはですね」と遮ってきたとしても、「ちょっ」「しっ」「だまって」などと強気で制しつつ好きに書けそうな気がする。
つまり、だ・であるは主導型で自由に言葉が出てきやすくするための装置のようなもの。
対「外」で行きましょう、と脳内会議であらかじめ決定がくだされているような記事では、敬体がすっと出てくる感じだ。編集者によい席に座ってもらい、「私」「わたし」「おれ」「吾輩」「拙者」「某」は一歩下がって、すん、とおとなしくしている。え?そう?全然でてますけど?とつっこまれてもそこはやはり「ちょっ」「しっ」「だまって」と制しますのでよろしく。
とほ
※エキサイトブログでやっていた前進ブログのことです。
※※本記事はnoteからの移行記事です。