そんなわけで、移動中はよく物語について考えている。
待って、どこから来たんだ、この”そんなわけで”は。
今でこそ一対一ならまあとりあえずはそこそこ(そこそこね)だれとでも途切れさせずに話ができるようになったけれど、相手によってはまたはその場の空気にまかせて、一対一なら、まあ三人くらいまでなら、気づけば深い深いところまで長々と話しこむみたいなことも起きがちな人になったけれど、一定人数を超えると簡単に飽和状態になって壁に寄っていくタイプであり、話さないでいいなら話さないでよくて、聞くのが好きだったりもして、つまり本来おしゃべりなタイプではない。
が頭の中は別である。マインドフルネスだの瞑想だのが指し示す方向とは逆なわけでありけしてよろしくはないのだろうけれど、騒がしい。すごく騒がしい。会議はしょっちゅう開かれていて、会議は踊るされど進まずにおちいりがちだし、自分で自分にあいづちをうったり、つっこみをいれたり、腑に落ちたり、類似点を並べたり、例外を示そうとしたり、なにしろずっと騒がしく、でも、とか、あ、わかった、とか、とはいえ、とか、そうだそうだ、とか言っていて、そんな内側の会話がそのまま外側に出てしまうことがある。いい大人であるが、ある。そういうわけで「そういうわけで」とか「でも」からいきなり会話を始めてしまう、
なんてことは、さすがに、他人の前では理性も働いているはずなのでしない、
と思うでしょう。ところがどっこいなんだな。
‥‥‥なんの話をしている。そういう話じゃないんだ、したかったのは。なんだったっけ。移動中に物語を考える話だった。で。なんだっけ。こうやって脱線して出てきたものを書いているうちに本来の内容を忘れることもよくある。”そんなわけで”がどこから来たのかも、そもそも何を続けて書こうと思っていたのかも忘れてしまった。
(沈思)
多分、多分だけど、先日の記事についてだれかがスキを押してくれた→うれしい→もう一度読み始める(よくやる)→5つの人生要素について考え始める→旅のことを考える→今ここ、という流れだったと思う・・・そうだ、ちょっと思い出してきた。
物語について考えるというのは、お話のネタのようなものを思いつくもこともあるけれど、どちらかといえば、物語「とは」的なことが多い気がする。それを、あ、でも、とか、そうはいっても、とか、つまりすなわちしたがって、とかなんとか言いながらこねくり回しているのである。
テーマは、タイトルに上げた、12年前にこれからはこれを軸に生きていこうと決めた5つの要素を軸にしようと思います。いかようにも拡大解釈できる。世界のすべてですね。ほぼ縛りなし。日記じゃないかと。そうともいいます。
私の人生5要素である『物語、言葉、映画、本に旅』。
このうち物語が一番始めなのには意味がある。一番大事だから。
じゃあ旅はちがうの?そんなわけはない。旅は実のところ、5つの要素のうち最後に書いてあるが、Last but not leastというやつである。あるいは、映画のエンドタイトルでまっさきに名前が出てくるのが物語だとしたら、すべての名前が出尽くした最後の最後にぽつんと引き離されて出てくる名前のようなものである。まるでダブルキャストであったかのように。まるで影の主役のように。あるいは、あるいは、一番好きなものを最初に食べるかあとに食べるかのちがいといってもいい。
‥‥‥ちがうな。どれもたとえがしっくりこない。
それでもしぶとくしっくりくるところを探りつつ話すなら、旅は実のところ他の4つをのせて走る列車である。船である。だから移動中に物語のことを考えているのはあたりまえだし、考えるには言葉が必要だし、本を読んでいても、映画を観ていても、そのどちらのことを考えていてもいいのである。旅は移動と同意語である。旅は瞑想である。瞑想は物語である。
なんだこの、うまくまとめたやろ感は。妙にまとめすぎて、なんだかやっぱりしっくりこない。しっくりこないことをそれでもしぶとく探りあてるために、固まりにしてみせるために、定義するために、神は言葉を与えたもうた。まあ与えたくせに人類が破天荒やらかすから離散させちゃったけど。自国の言葉で足りないなら他国の言語を拝借すればいい。材料が足りないなら本や映画から貰えばいい。そうすれば世界が広がる。世界は物語だ。結局のところ世界を広げるために、あるいは散らばったものを拾い集めるために旅がある、言語がある、本がある、映画がある。
ううむ、どうやっても、うまくいってやった感があってしっくりこない。自分のこのうまくまとめようとするあたりが鼻につきはじめた。多分言葉を重ねてもあちこちいくばかりな気がするので、今日はもう寝ます。
とほ
本と映画について。
言葉について。
会議は踊るされど進まず。