昨日の記事でちらっと漏らしたけれど、どうやら近すぎるものに対して圧迫感を感じやすい性分ではあるみたいだ。
数億年前から、不用意に体を近づけてくるクラスメイトが苦手だった。ひょい、とパーソナルスペースを無邪気に侵略してくるので、不快というよりはとまどいながら、ちょ、近い近い、近いから、ととっさに眉間を手のひらでぐいいと押し返したくなる感じがあった。実際に押し返してはいないけれど。身体をじりっと後退させてしまってた気はする。
空間的な近さもだけれど、時間的な近さがだめなところもある。即行動だいじ、スピードだいじ、といわれても、頭の回転速度が早くないのもあって、早く動きすぎるものについていけない。ちょっとまって、ひといきつかせて、となりがち。
心理的な距離という点でも。話がずれるかもしれないけれど、自分ではリンクしている気がするので書くと、暮らすなら田舎より都会。干渉度合いが低いゆえ。実際には見張られているのでなくても、なんとなく各人の事情が知れ渡る規模のコミュニティは途端に息苦しく感じる。都会での適度に異邦人な感じが好き。それもあってかSNSもクローズ型は、どれとはいわないけど村社会・・・と感じてしまって早々に抜け出した。
家族との距離もそう。母親との近さゆえに、親元で暮らす選択はありえなかった。中高からそのまま大学まで進める学校だったけど、こんなところで大学まで進んだら私の人生詰むと思って、半ば騙すように外の大学を受験して離れた。家族仲は良い方だけど、でもそれも今となってはだし、今も距離があってこそというところもある。一緒に住んでいたら、自分の何かはまちがいなく破綻していた。家族が大事というのとはまったく別のところで。きっと田舎にいたら縮こまって、詰んでた。今が詰んでないかというと微妙だけど、今よりもっとがちがちに生きてたと思う。田舎がいい都会がいいという話ではなく、適応性の問題。
内向型のくせに、嗜好は、昔から、常に遠くから好むというか、外に向きがちだった気がする。日本史よりは世界史、邦画よりは洋画、日本の小説よりは翻訳小説。旅なら国内より海外。つまり、国レベルでもそう。けして自国が嫌いというのではないのだ。今まで書いてきたものを読んでくださった方にはわかってもらえると思うけど。日本的なものに対する愛着と安心は確かにある。でもそれとともに、誤解を恐れずにいえば、近親憎悪、と言葉にすると強くて自分ではっとするけれど、でもなにかそのようなものが内側のどこかに潜んでいるのを否定できない。旅に出るのは、ずっと日本に触れていると息苦しくなってしまうので、外に出ることによってある程度バランス取っている、というのも正直ある。
精神が生まれながらにして老眼なのだ、多分。近すぎると顔をついくいっと遠ざけてしまう。老眼という表現であらわすのも、自分でも今書きながら、なんかちがうような気もしてきたし、若い衆からは、そのたとえ、よくわかんないです、と言われそうだけど汗。
なんだろうな、狭所恐怖症・・・などでは特にないし、近距離恐怖? でも恐怖というほどではない。心理的にも物理的にも圧迫感を感じるものをなんとなーくふらーっと避ける傾向。そのへん、なんかいい言葉ないんですかね。いや、別になくてもいいんですけども。
とかいいながらみんな多少はあるんじゃないのお~、なんて、あるある枠に入れこもうとしているところも5mmくらいある。
今日は、わたくし、いったい何を書いているのでしょうか。
いずれにせよ、近すぎるを避ける性質は、人間関係ではやはり、少々、問題ありなんだろう。同時にもうしょうがない、ここまできてしまっているのだし、これが自分だし、対象とのある程度の距離は自分には必要なのだと、半ばあきらめ、半ば受け入れている。半ば。
とほ