カフェで青年ふたりの会話に聞き耳を立てる。

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インド日記

3月某日。

目下のお気に入りカフェ、The Roasteryで。

となりの青年ふたりがSheの話をしている。さっきまでのPCを見ながらの打ち合わせを中断して。個人的な話に移行している。Relationshipの話をしている。Sheの内側を慮った、自分たちとの違いもとらえつつ、さまざまな角度から、静かな声で思慮深く会話している。

なめらかな、癖のない、いわゆるインド英語的でない、完全に自分たちのものとしての言語として、自在に語り合っている。インドアクセントがあろうと自分たちのものとして自在に話している人は普通にいるけれど(ソナムやスネハもそう)、この人たちにはほとんど癖を感じない。海外の生活経験がある人たちなんだろうか。それとも教育環境によるものなんだろうか。

映画をきっかけに、あるいは経済的、政治的な関心から、この国に目を向ける人が日本でも増えているとは感じるけれど、まだまだ誤解も多いし、この国の英語浸透率や教育水準が高いこと、地域差はあれど、横にいる青年たちの会話もまぎれもなく現代インドの一部分であり、洗練された人々が普通にいること、都市部のたとえばカフェなどある程度モダンな場所に行きさえすれば、いくらでも隣で展開していることを、日本のどれだけの人が知っているだろうか。

なんてお節介にもついそんなことを思ってしまう。私だって永遠のインドひよっこではあるのだけれど。ただ、せっかくこの地にいて、こうしてブログという持ち場があるのなら、広いインドの片隅で一個人の目が切り取ったフィルター越しではあるけれど目の前の事象を書き落としておくのがひとつのうんぬんかんぬんいうとりますが聞き耳の言い訳です。

 

今は組み合わせが変わって男女がさっきの青年たちと同じ席にいる。ロシア語のように聞こえるが、よくわからない。女性はロシア人といわれたらそのようにもみえるし、ちがうようにも見える。男性の容貌は最初トルコかどこかの人かと思った。あ、ドイツ語なのかも。女性の顔はそう思えばドイツ寄りかも。うーんでも東欧的でもあるんだよなあ、よくわからん。そもそも私にはそのどれも判別できる耳がない。

これらの会話に、出てくる前にマリアの手作りフィッシュカリーを食べたときに刺さった喉の小骨を気にしながら、なんとか排除しようと喉の筋肉を動かし続けながら、耳を傾けるともなく傾けている。

男女ふたり、白熱してきて、声が大きくなってきている。そろそろ耳栓の出番かもしれない。

 

後日、青年ふたりの会話について、Sheに関する会話がカフェで繰り広げられていた、それも哲学的な深い話もおりまぜながら、とサリーローズに話したら、その後カフェの話が出るたびに、青年たちがフィロソフィカルな話をしていたところね、と目くばせするようなニュアンスで言うようになった。あまりに何度も言うので、哲学的ってフィロソフィカルという表現でよかったんだっけと心許なくなる、いつまでたっても英語弱者な私。

 

ヒンディー語は、母語話者数4億9000万人でインド国内で一番話されている言語ではあるけれど、インド全体の公用語ではないということ。ヒンディー語は「連邦公用語」という位置づけであり、話されているのは主にデリーを含む北インド。ちなみにインドの準公用語は英語。だからかなりの割合で英語が通じます。少なくとも都市部は。