『Tamasha』で二人が再会したカフェ in ハウズカースヴィレッジ/デリー

ロケ地-インド

 

インド/パキスタン/インドネシア旅2019、ロケ地巡り更新。(旅程はこちら

『Tamasha』続きです。

語り部のいる町シムラー、インド映画『Tamasha』のロケ地。
インド/パキスタン/インドネシア旅2019、ロケ地巡り更新。(旅程はこちら)  『Tamasha』 監...

 

場所はシムラーから移動して首都デリー。

スペインのコルシカ島で出会ったヴェド(ランビール・カプール)とタラ(ディーピカ・パドゥコーン)の二人が再会する場所。

前回の記事で、この映画を好きな理由をストーリーテラーの話だからと書きましたが、恋愛パートもひどく刺さってはいるのですよね。この映画の中で登場する主に4つの舞台の中でデリーは一番恋愛要素が強く、しかも暗黒面に突入する場所。きついです。相当。

しかしロケ地は素敵。ハウズカースヴィレッジ。ここは既に以前アルジュン・カプール主演『2 states』、 『キ&カ』のロケ地として訪れていますし、イムティヤーズ・アリー監督作品『Rockstar』の”あとだしロケ地”としても記事にしています。

今回訪れたのはそんなデリーの若い衆が集うおされスポットにある、コワーキングスペースも備えたカフェ/レストラン、SOCIAL。

Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".

シーン:再会。そして崩壊。

場所:SOCIAL in ハウズカースヴィレッジ(Hauz Khas Village)

行き方:メトロ・イエローラインのHauz Khas駅かGreen Park駅からオートリキシャで。

Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
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Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".

1階のカフェ部分も随所使われていますが、 偶然を装ってヴェドに会いにきたタラにヴェドが気づく場面はこの螺旋階段を上がった2階。2階は会員制のコワーキングスペースになっているので残念ながら行くことはできず。

Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".

と。今回あっさりロケ地写真みせびらかしに入ったとみせかけて、この先めちゃめちゃ内容に触れています。それも再観賞しながら自分の整理のためにメモしたことをそのまま載せるという暴挙。自分でもひくほどにね!・・・すみません汗、吐き出せる場所がここくらいしかないものですから・・・。

なので、観たいから内容知りたくない方、観たけどそういうのいらねという方、あるいは旅情報にしか興味ねえんだオレわという方、下のサイケなトンネルを抜け出たあたりで逃げて!

Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".
Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".

 

コルシカで交わした、境界をこえないという「契約」。

彼女はそれをもう守れなかった。守りたくなかった。だって二度と会わないのだから。そうして一線を超える。

しかしコルカタに戻ったタラはヴェドを忘れられない。つきあっていた彼と別れ、仕事もデリーに移し、コルシカでヴェドの持っていた本を手がかりにデリーのハウズカースソシャルに行き、待ち伏せする。

ヴェドがタラをみつけ、彼女は驚く(ふり)。デリーにいたの?と聞かれ、答えを避けようとするけれど無理があると悟り、待ち伏せていたのだと、どうしてもそうせずにはいられなかったのだと白状する。ここで初めて本当の名前をなのりあう。

ここでのディーピカちゃん演じるタラがなんというかもう、大胆な行動には出たものの好きな人を前に緊張している恋する女の子で、本当にかわいくてきゅんきゅんする。

一方で、この時彼の中にあった感情はどうだったのだろう。嬉しくないわけはなかっただろう、事実みつけた瞬間躊躇なく声をかけている。あの時の自分と違う自分で会っているのに。この時彼はなんの躊躇もなくヴェドとなのっている。普通にヴェドとして彼女に対面している。でも彼女が会いに来たのはコルシカのドンなのだ。このあと波がたたないわけがない。

とにもかくにもめでたく二人の関係が復活し、デートすることになる。ジャパニーズレストランへ。レストランが微妙に中華であるへんは置いておき、伏線としても弱くはあるけど、日本人の自分としてはこの映画に日本が出ているだけですごく嬉しいし、その場所として日本を選んでくれてありがとう、という気持ち。そこも置いておき。

その後、会い続けていくうちにタラの中で違和感が大きくなっていく。

一方、その合間合間にヴェドのデリーでの生活も描かれていく。毎日のルーティンを規則正しくくりかえす男。髪をちゃんとセットし清潔な身なり。

デリーでは視点は完全にタラ側だ。少なくとも最初のうちは。コルシカでのトラブルがヴェドの助けもあって一段落して、一足先にインドに変えることになり、コルカタに戻ったもののデリーに居を移すことになるまで。そうしてヴェドと再会し、関係が復活するまで。

なぜならここで彼女が動かないと物語が動かないから。彼女の中の変化が自らをして彼に会いに行かせ、やがてはヴェドをして語り部に会いに行かせる。タラという賽が振られなければヴェドが自分に戻ることはなかった。語り部の話を目を輝かせながら聞いていた少年の頃の自分を取り戻すことはなかった。

さて、タラ。ヴェドも自分を愛しているという。両思いのはずなのに違和感はどんどん大きくなっていく。そんな中のヴェドからのサプライズプロポーズ。祝う気配に満ち満ちた同僚たちをおいて、店の外で話し合うタラとヴェド。タラは言う、あなたはまるで・・とてもちゃんとしていて、プロダクトマネジャーみたいで、都会に住んでいる人みたい。と。

ヴェドは言う、そのとおりプロダクトマネジャーで、都会に住んでいる人間じゃないか。と。

ヴェドが言う、ヴェド自身が言う。ぼくはドンじゃない。ムービーディレクターでもない。あれは演技だよ。役を演じていたんだ。これが本当のぼくだと。

タラは否定する。

あなたはドンよ。インターポールの刑事よ。演技してるのはここでのあなただと。ここで普通の男を演じているのだと。そうすべき自分を演じているのだと。ここのあなたはすべて偽物だと。

タラはやはりミューズだ。扉を開く鍵だ。ここで、そうね、あなたは旅先ではめをはずしたのね、よくあることよね、と引き下がることもできたのに。でもそれをするには彼女の中で違和感が大きすぎた。

でもそれはヴェドが受け止めるには大きすぎる事実だった。あまりにも長い間自分に課してきたものを今ではこれが本当の自分だと思いこむようになっているから。他の誰かにふいに指摘されて冷静に受け止められる人間はそういない。彼の表情が本当につらい。俳優としてここのランビール・カプールは本当にうまい。うますぎる。このシーンに限ったことじゃないけれど。

監督がランビールカプールじゃなければこの映画を撮る気はなかった、と言っているインタビュー動画を見たけれど、とてもうなづける。私もこの俳優じゃなかったらこんなにささる映画になっていたかわからない。相手役のディーピカもそう。彼女の恋する女性のとびきりのかわいらしさとつらさもまたささる要因。ふたりが実際つきあっていたというのも無関係ではないのかもしれない。この監督とこの俳優たちで、それも当時のタイミングで作られたのが、この映画のある種の熱を押し上げている要因でもある気がする。

話を戻して、それでもこれが本当の自分だと冷静に言うヴェドに、タラはついに言い放つ。それならそれはわたしの欲しいものじゃないと。

いまや事態は混乱を極めている。しかし起こるべきことが起きているのだ。何も不測の事態などない。物語が始まったからには起きることになっていた。なぜならこれはヴェドが鍵をひらく物語だから。

同僚たちのもとにひとり戻り、気まずそうな彼らを逆に大丈夫だと気遣い、ちゃんとメインコースまで食事を終えて帰宅したヴェドは、鏡の中の自分に向かって問いかける。

いいか、ボス、2つの選択肢がある、Majnuになって服を引き裂き叫ぶか、冷静のままでいるか。つまり、自分はどちらも選択できることはわかっている。人は選択して生きている。ほとんどの場合。気づくと気づかないにかかわらず。ヴェドは冷静のままでいることを選ぶ。

でも無理だ。もう無理。彼はもう冷静でなどいられない。壊れ始めていく。鍵がある以上、鍵があることを示されてしまった以上、鍵があう扉を探さないといけないし、開けなければいけない。そうでないと物語は終わらない。

タラのもとをたずね、言い訳を、そう、今の自分にしがみつく言い訳を始める。コルシカのあれは演技だったのに、ここの自分が本当の自分なのに、きみはここに来て、ぼくをみて、ぼくが自分のレベルじゃないと思った、そうだろう、ぼくは普通の人間、平均的な平凡な男なのに。

そうじゃないとタラは打ち消す。あなたはそうじゃない。私が知ってる。

すごいことだ。あなたはそうじゃない、普通の人間じゃない、とタラはいっているのだ。逆ならありえそうなシチュエーションで。つまりぼくはそこらへんの男と違うと言い張る男にあなたは凡庸なつまらない男だと言い捨てる、といったような。でもその逆。

あなたは特別。あなたが持っているのはその程度のものじゃないと。

でもヴェドの耳には入らない。ここにしがみついていなければならないから。しがみついていなければならない心理的な壁が彼にはある。家族も友達も知らないのに君が何を知っているというのか。冷静なままでいくといったのに、いつのまにかManjnuになっている。叫んでいる。そのまま外へ飛び出す。

飛び出してオートリキシャで帰る途中。歌いながら髪をさかんにととのえるドライバーに、へいボス!髪型かっこいいね、とちゃかすように声をかける。少しドンのような雰囲気で。

映画にでも出るのかい?

出たかったねえ。

オートドライバーがいう。

出ればいいじゃないか、問題でも?

問題はあるよ。ひとつだけね。環境さ。親は義務をこなして自分を生むために結婚した、自分も必要なことをこなしている、ふたり子供を育てているし・‥教育、衣食、妻の願い、この渋滞・・・

俳優になりたかったの?

歌手だよ。

自分がいかにすごい歌い手であったかを語るドライバー。

見た目からは想像できないだろうけどね。ただのリキシャの運転手、だれひとりとしてこの魂を知らない。内側には別の人間がいる、だけど外側は無力なもんさ。諦観したように、陽気にすらみえるトーンで語るドライバー。

そこからヴェドが過去を思い出すシーンがカットバックしていく。父親との確執。インド映画では父親の期待というか抑圧って本当によくでてくるけど、つくづくひとつの社会的事実をあらわしているのだろうなと思う。ここまで描かれるということは、それが息子にとっては、少なくとも現代では弊害でしかないということのあらわれでもあるように見える。支配的な親のもとに育った子供特有の性質をヴェドは抱えている。

歌や踊りが少ない映画だけどここで歌が入る。歌っているのはオートリキシャのドライバー。この人、実は最後に別の形でもう一度登場する。それがまた鳥肌なんだけど、ともかく。

ヴェドはどこかの屋台がある公園で休憩している。帰宅途中だったのになぜかドライバーともども休憩、というのはいかにもインド。戯れに歌うドライバーのかたわらで、歌に触発されたようにヴェドは語り始める。物語を。その場で食事をしたり語らっていた人々が耳を傾ける。

いつもの日常が少しず変わり始める。少しずつ抵抗が表出する。たとえばネクタイをはずすことだったり、プレゼンに物語を盛り込みだしたり。クライアントの反応はいいものの、上司は渋い顔をしている。そういえば上司も父親みたいな威圧的な存在だ、それもあって彼はへつらってきたのだろう。

SOCIALは再会した場所であると同時に決定的な崩壊が起きた場所だった。

ヴェドの物語が動いていく一方、タラの状況は悲惨なことになっている。プロポーズを拒否はしたけれど、彼のすべてを拒否したわけじゃない、どころか・・・自分の取った態度のせいで彼は去ったのに、来ない連絡を待つかのように暗がりでベッドに転がり、じっとスマホをみつめる。

ヴェドからようやく連絡がくる。努めて平静に話すヴェドに対し、会いたいと言い募るタラ。そうして再びSOCIALで会う約束をする。

姿を見せたヴェドはどことなくドンっぽい雰囲気を漂わせている。この時のヴェドはドンに戻りかけていたのか、そのように見せかけていたのか。タラがこのあと謝らなければどういう流れになっていたのだろう。

タラは謝る。あの日の自分はあなたの一番触れてはいけない部分(raw nerve)にふれた、今日は謝りにきたと。

彼女は彼から離れられない恋する女に完全に戻っていた。死ぬほど後悔していたのは彼を失うことが耐えられなかったから。だから謝る。いくらむき出しの神経に触れようと、それは真実で鍵だったのに。彼女はすべてを撤回する。彼を取り戻すために。あの時拒否した指輪を欲しいとさえいう。

それがヴェドを逆上させる。

おまえは何者なんだ。心理学者か。おれはおまえの患者か。

いったん示された鍵。ドンに戻りかけていたのに。ドンで彼女に会いかけていたのに。彼女はそれをだいなしにする。ヴェドは感情を抑えることができない。

タラも余裕など微塵もなくヴェドにすがる。

恋に狂った女だな。それに対してさえ肯定するタラ。ヴェドは酔ったように歌い出す。ドンは戻ってくるよ。待っていればね。そうして立ち去ろうとする。ドンは他の誰かであって自分ではない。彼女に与える気はない。

今度はヴェドからの完全な拒否。拒否とは違うかもしれない。でも彼にはこれ以上耐えられなかった。このままここにいると関係も彼女も感情も、どころか何もかもを壊してしまいそうだった。

SOCIALから出ていったヴェドを追うタラ。グラフィティのある小路でみつけ、彼の前で許しを請うように座り込むもヴェドは結局立ち去ってしまう。

日常に戻るヴェド。壊れていく。ようでありながら明らかに感情が豊かになっている。ひとでなしなのか心が生まれたのか、どちらも併せ持った生きた人間らしさが備わっていく。Vividという表現がぴったり。無色だった日常が明らかに色味を帯びていく。

雄弁で活き活きとまるで舞台のようなプレゼンテーションを行うヴェドを驚いた目でみつめる上司。それがポシティブな意味合いではないのはあきらかで、終了後部屋に呼ばれ、どうしたんだと問い詰められる。同僚たちも変わってきた彼に気づいている。日常の崩壊は近い。同時に再生に近づいていく。

 

Visited Hauz Khas Social as a film location of "Tamasha".

SOCIALを外からみた写真。


ハウズカースヴィレッジの脇にある遺跡公園は、同監督『Rockstar』でも出てきます。結構この監督、映画のロケ地かぶってること多い笑。国内もだし、海外もプラハとかね。

 



遺跡公園の前には湖があり、ここも若いグループやカップルの憩いの場になっています。

いい?とカメラを向けると、みな、とびきりよい笑顔に。セルフィー慣れしているインド若い衆はこういう時本当によい表情をする。田舎の素朴な笑顔もいいけど、都会の若い衆のこういうさっと応じてくれる表情もよいのだよなあ。

この映画にでてくる4つの主な舞台、その象徴するものを自分解釈で整理してみました。

シムラー:ヴェドが物語に出逢い、物語に戻る場所。
コルシカ島:旅先という束の間で隔離された空間、だれも自分を知らないゆえに別人になりきれた場所。別人を演じたようでいてそれが本当の自分ということにはこの時本人はまだ気づいていない。気づいていくための賽が投げられたことにも。その賽がタラであることにも。
デリー:ヴェドが機械のように生きていた場所。麻痺し、その麻痺にすら気づかずに。ふられた賽が転がりはじめる場所。
トウキョウ:ドン(自分)に戻ったことを伝えるため、タラに会いに行く場所。

東京で使われたのは有楽町にある国際フォーラム。いや本当、さっきも書いたけど、この映画にはまってしまった身としては最後のそんな場所に日本を選んでくれてありがとうしかない。あの指輪のシーン・・・涙腺崩壊ですよ。その前にもう崩壊しつくしてたけど。といいつつ行ってないのですけど(おい)。つい先だっても友人とお茶しにいって昼から暗くなるまでいたのに。ロケ地としては行ってないの、なんだろうね笑。いつでもいけると思うと逆にいかないのよね。

カットされてしまったようだけど新宿などでもロケがあったらしいし、東京ロケ地巡りもしないとなー。どなたかご一緒しませんか、なんて。あとコルシカ島もマストロケ地としてリストにインしているのはいうまでもありません。ああ大好きだTamasha。

 

p.s.
指輪といえばヒジュラーのシーンも好き。

さらにp.s.
ところでLove in Tokyoリメイクの話はなくなったのだろうか。