死との対峙の仕方の変化。

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問わず語り

 

子供の頃はまさか死が優しくなるなんて思わなかった。死はいつだって狂気に近い恐怖をつきつけてくるものでしかなかった。あんなに鋭角に脅しつけてくるから直視せず逃げるしかなかったものが、一生そうだと思っていたものが、避けられはしないまでも、少なくともその角が取れてまるくなるなんて、そのように受け止める日が来るなんて思いもしなかった、子供の頃は。

人生100年時代と言われるようになってまだ数年、昨年その後半組に仲間入りし、そこそこくたびれかけている体ながら100まで生きる気満々の人間だけど、同時にどこかで打ち止めになる可能性も、常に1ミリくらいは片隅で覚悟してもいる。

そりゃ痛い苦しい思いはしたくないし、突然そんなことになったらみっともない姿晒さない自信はあまりない(できるだけクールでいたいとは思うけど)、けど、来る時は来る、と、子供の自分が知ったら口をあんぐりあけて持っていたボールをぽとりと落として気づかないほどには、ある種の諦観が自分のものになった。なって久しい。人生って諦観を身につけていく過程のことなんだな。

最近はふとした瞬間に、この年まで生きてこられたってすごいことだ、と何かに感謝したい気持ちが少なくない割合でわきあがったりもする。

でも一方で、その割に時間を無駄にした生き方をしている、とも感じている。 いまだに。 さすがに子供の時みたいに湯水のように時間がありあまるかのような使い方ではないにしても。少なくとも数十年で効率は改善されている。そう思いたい。思わなきゃやってられない。でもフルに活かしきれているかというと、即座にわたしの人格のひとりが頭を激しくふるくらいには無駄に生きている。

やりたいことのわりに無駄がすごい。 時間感覚の欠如したADHD人格が鷹揚にかまえているせいもあるだろう。この鷹揚さもどこかでは私の持ち味だなんて思っているから始末におえない。でもやっぱり余白も必要なんだ。だらだらだいじ。怠け大好き。余白もやはりなくては生きていけない。

でもそれにしたって余白が多すぎる。 凡人なりに、先延ばし大魔王なりに、達成したいことがあるらしい。そりゃ、世界を救うみたいなだいそれたことではないけれど。さて、で、どうするの?という話で。なんとかして、もう少しだけ起動力をあげたい、というところに行き着く。

それで今更ながら習慣化を身に着けようといつになく本気でとりくむようになった。コロナでできた余白が後押しになった。その試みがうまくいっているかの話はまたあらためて書くとして(気が向いたら)。

確かに死は少しだけ優しくなった。気づけば正面からみつめることもできるようになり、数十年後かそれとも明日か、いつかはくる時のことを静かに思い描くようにもなっていて、そのことにたまに感慨深くもなっているけれど、みつめようとみつめまいと、来る時には来る。あっけなく。それだけは変わらない。明日にでもその時が来る可能性を1ミリだけ覚悟したまま、元気に100まで生きたい。やりたいこともする。達成したいこともする。したい以上は、その時々の体と相談しながら。

でも本当いうと何よりしたいのは、それらで退屈せずにそこはかとなく楽しい気分で生きていきながら、ただ移り変わっていく世界をみること。世界がどこまで変わるのか、あるいは変わらないのか、肉眼で私はどこまで観察できるのか。結局わくわくしているのはそこにつきる。

とほ