そんなふうに見えない。

問わず語り

 

ソロキャンプをしたりサンティアゴ巡礼路を歩いたりインドが好きで再訪を重ねたりしていると、人からよくそんなふうに言われる。

それまで旅や趣味の話をする環境じゃなくて話してなかった知人にたまたま流れでうちあけて、「えー、意外」と驚かれることもあるし、何年もつきあっている友人から、あらためてつくづく、という感じで「見えないよねえ」と言われたりもする。

つまり、その人の中にすでにわたしのイメージがあって、それと異なるということである。

それを聞いたわたしの反応は、まあだいたいは、わかる、とか、でしょうね、だ。ほとんどの場合、悪気があって言っているのではないのは伝わるし、実際そうだろうと思うからだ。

ここでも何度か書いてきているけれど、性質的にはイントロバート・インドア族であるし、少なくとも自分の見た目がワイルドのワの字も醸してないことはわかる。話し方もやさしいし見た目もやさしい(自分で言う)。内側に相当のブラックを飼ってはいるが、ブラックとやさしさは共存できると思っているので心根もやさしい(さらに自分で言う)。バファリンと同様、半分はやさしさでできていると思っていただいて問題ない。

身なりもいたって普通。旅先ではくだけた格好をしているけれど、空港で呼び止められない自信はあるし、日本にいる時も、近場では手を抜いているけれど、それでも必ず簡単にでもメイクはするし、見苦しくないところを心がけている。街に出る時はそれなりにおしゃれはするし、自分で言うのもなんだけど、10人中8人には上品な印象を与えるんじゃないかと思う。

つまり、そのイメージは、知り合っている期間にもよるけれど、私が意図して発しているもの、例えば発言などによって作り上げられたものもあるだろうし、コントロールがいつもできているわけではないけどだいたいは選んでやっていること、例えば表情や服装などから、ということもあるだろうし、自分では気づいていない無意識の領域、例えば癖や雰囲気からということもあるだろう。

でも一方で、わたしから発せられたもの以外に、その人の中の自己統計や経験や価値観や思い込みによるフィルターから発せられるものもあるだろう。

わたし自身は、「えー意外」みたいな発言については、それが自分の内側にあるその人のイメージに対する「意外」でしかないので口にするのは無意味だな、と気づいてからは意識して言わないようになったけれど、フィルターを持っていること自体は、必ずしも悪いとは思っていない。というかだれでも持っているものだし、むしろその配分が個性を形成していたりもする。ただそれを「真実」として相手にそのまま押し付けてくる人はやはり少し未熟なのかな、と思わざるを得ないでもないので、目に余る場合は距離をとるなどの対応はする。

まあでも、それを言われる時の雰囲気にもよるけれど、だいたいは悪気があって言っているわけではないし、幸いというか鈍感なのか今ではそういう人には滅多に合わないので、普通に流す、という感じだ。

若い頃は自分が発しているらしいソフトな感じがいやで、自分の内側にあるものと見た目とのギャップに対する違和感も大きく、乱暴な言葉を使うとかイキって見せるとか(笑)イメージを払拭する行動をしていたりもしたけれど、そういうのも若いうちの特権というか、いやー青かったな自分というか。今はむしろそのギャップを楽しんでいるところさえある。

知り合って長い友人なら、わたしの内側のブラックも知った上での「見えないよねえ」だろうし、会ったばかりの人であれば、知り合っていく縁なら、「えー意外」がどのように変化していくかあるいはいかないかを見守るのもおもしろい。

どのように抗おうとある程度はどうしようもないものだということは、すべて年齢で言う気はないけれど、それでも年齢をそれなりに重ねればわかってくる。基本的に人は見たいようにしか見ないものだ。「ちがう!わたしはこれこれこういう人間です」と主張してみせるのもありだけど、それすらも他人は話半分で聞いてるものだ。そういうものと思う方がむしろ楽、という話。

‥‥‥このネタで話始めてしまったものの、オチが降りてこないな(汗)。そろそろ日も変わることだし、ここらで失礼します。

とほ