哲学的な話ではない、表記揺れの話だ。しかし、哲学要素も入ってないか、それは絶対か、と問われるとそうではないと言い切る自信はない。しかし体系的に学んでないので該当する言葉が自分の中からでてこない。それはこれこれこういうことですよ、とすぐにでてくる人がいたらご教示ねがいたいくらいだ。哲学には興味がある。なんの話をしていたのだっけ、表記揺れの話だよ。
わたしと私で揺れている。心情的に近いのは”わたし”なのだけど、漢字ひとつで済むために”私”を使ってしまう傾向がある。わたし、いや私の中には、「心のおもむくままに」派閥と「文字数は少なく端的に」派閥があり、前者の勢力が強い日は”わたし”、後者の勢力が強い日は”私”になる。内容によって使い分けている面もある。や、どうかな、わりと適当だよあんた。
ほかにもわたしが気をつけないといけないのは、○抜き言葉だ。”ら”は対処できていると思う。概ね。よくやってしまうのは”い”だ。いをつい抜いてしまう。とくにこういうエッセイもどきの文章では。しかしこれはあえてやっているところもあるのだ。カジュアルな文では、すべて正しい表記にすると堅苦しくなるために、いを抜くことによって口語感をだしている。すべてに”い”を入れるとかえってもたついてみえる。考えたすえにやっているのだ。や、これも、どうかな。あとで見返すと、いや~これは「あえて」ではないでしょう、という箇所でもちょくちょく抜いている。
まだある。どこまでひらくか問題もある。”開く”か、”ひらく”か。とにかくこれらの揺れがアップした最初の段階ではかなりある。それをあとでこそっとしれっと訂正している。当ブログのファンのみなさん(実在するかは不明)、一度読んだ記事でも再読するとこそこそ訂正した形跡がみられるので2度楽しめますよ。
保身のためにことわっておくと、実務文書を扱う本職では、スタイルガイドという表記統一のガイドラインがある。クライアントによってちがうこともあるけれど、提供されたスタイルガイドや指示を遵守すればいいのである意味では楽だ。ない場合でもベーシックなルールはある。揺れがあっても最終チェックの段階で一括変換したり目視しつつ置換させるなどして解消させている。
それを適用すればいいではないか。個人的な文章では、統一ルールがいまだ確立してないのが一因かもしれない。記事内では最終的に一致させても、記事間ではあいかわらず揺れている。
でも。ブログでは、まずアップする、を優先しているのだ。ある程度わりきらないと腰が重くなりすぎる。現時点では自分に毎日更新のしばりを課しているけれど、これが腰の重さを払拭するのにたいへん助かっている面はある。まちがいを気にしすぎるよりはその日のうちにとにかくアップ、を優先している。
‥‥‥などと書いている先から、すべて言い訳のように見えるのなんでだろう。困ったことに、この記事を書き始めてからなんだかぎくしゃくしはじめた。歩き方を問われたムカデのようだ。今日はもともと即興雑談のつもりで書き始めたのだけど、すべりだしは悪くなかったのに、書いては消し書いては消しを繰り返し、思ったより時間がかかってしまった。
揺れはもう気にしないことにして、アップすることにする。
とほ