パンツの買い替えと人生の関係

問わず語り

 

お風呂からあがって、履くパンツを下着ボックスから物色している時、あるいは洗濯したパンツを下着ボックスにしまっている時、こんなパンツを履いていてはだめだ、という気持ちが突如わきあがる。だめだだめだこんなことでは、こんなパンツを履いているようじゃ何やってもうまくいくわけがない、と頭を抱える。

一つ一つの下着に対してではなく、下着ボックスを眺めている時にこれが起きがちなのは、全体のくたびれ感に、己の生きざまを見てしまうせいかもしれない。

そうして総取り替えしたくなる。しかし、本当に「総」取り替えをすればいさぎよいのに、そこは貧乏性なので、実際にはまだ履けるやつは残すことになる。完全に定年を迎えているパンツにはリタイアしてもらうが、困るのは、自分もう少しがんばれそうっす、という顔をしたパンツの存在だ。がんばれそうな顔をしているのに肩を叩くのも窓際に行ってもらうのも気がひける。そうして残す。しかし、会社はともかく、そういうもう少しあと少しな存在を残せば残すほど、その割合が増えるほど、パンツボックスの中も私の心の中も、なにかこう、斜陽、という空気が色濃くなる。

ちなみに下着ボックスといったが、今話しているのは日常使いパンツボックスである。ブラと上下セットそろっているものは別にしてある。上下セットは外出時にしか着ない。ここ最近出かけないからとんとお見かけしていない。ちなみのちなみに勝負下着の上下セットはこれともまた別のボックスに入れてある。勝負する機会はあるんか、という問いにはお答えできない。だいたいお察しの通りである。

話をパンツボックスに戻す。こんなことではいけない。テコ入れを行う時には非情になる必要がある。心を鬼にして、7割、いや8割取り替える。と、下着ボックス内は再びなんとなくパキッ、シャンっ、とする。しばらくは、アタシなんかいけてる感、を維持できるような気になる。日常使い用だから依然として小並感はあるとしても、新しいうちは、それなりに気に入って吟味して購入した下着を身につけているあいだは、どことなく背筋が伸びる感じがある。

それからしばらく履き続けていると、再び、下着ボックス内の下着が全体的に少しくたびれてくるサイクルにはいる。それでもなんとかまだ、まあまあ、まあまあまあまあいけなくもない。少なくともまだ捨てるほどじゃない。薄目で見れば十分現役。しかしそれは、本当言えばもうアウトに突入したのに自分をごまかしているだけにすぎない期、ともいえるかもしれない。

そこから遠くないある日、突如として、だめだだめだ!こんなパンツ履いてるようじゃアタシだめ!という、パンツにも自分にもだめだしする瞬間が再びやってくる。こんなにも、こんなにも、くたびれたパンツを履いていたのか私は。気づかない時点で人としてだめ。いや、それ自体も欺瞞だ。とっくに気づいていただろ、それでも履いちゃえる人間なのさ、キミは。選ぶたびに、くたびれてるな、と感じていただろ、それでも足を通しちゃえる人間なのさ、キミは。

脱衣所でがっくり膝をついて頭をかかえたくなる。パンツごときで定期的に自分だめ出し祭りが始まるの、勘弁してほしい。パンツが一生新品であってくれればこんなことにはならないのに。どなたか一生くたびれない新品形状記憶パンツを開発してくれないだろうか。実際は履いてなくても新品を履いているように見えるパンツでもいい。待って、それなら、履いてなくても綺麗なパンツを履いているよ今私は、という自己暗示を身につければいいのでは? くたびれたパンツだと暗示がうまくいかなそうだからいっそ履いてない方が、新品のパンツを履いているよ今私は、とうまく暗示にかかれる気がする。この技さえ獲得すればたとえ裸の女王様だと人に指さされても大丈夫。だって私は新品のパンツを履いているのだから。指差してくるのはきっとみんな私がいけてるパンツを履いているから妬いているのだ。私は新品でいけてるパンツを履いている。常に。だから背筋を伸ばして堂々としていられる。自己暗示が解けない限り。

もはや何いっているのか、自分でもよくわからない。

とほ