人気の揺れるシリーズ。特に人気ではない。
恥ずかしながら、本当に恥ずかしながら打ち明けるが、言葉について、いまだに意味をまちがって覚えていたとわかることがある。
最近では、やおらとおもむろに。
やおらとおもむろには漢字で書くと、やおら(徐ら)、おもむろに(徐に)、漢字でみれば明らかだけれど、その意味は「ゆっくりと」という意味である。それを逆の意味、つまり「急に」とか「いきなり」という意味で使う人が非常に多い、という。
「おもむろに(徐に)」という言葉があります。
これは、『落ち着いて、ゆっくりと行動するさま』を表す言葉であり、例えば、「おもむろに立ち上がる」ですとか「おもむろに取り出す」ですとか、主に急ではない動作を表す時に使われます。
しかしながら、文化庁が平成26年度に行った調査では、実に40.8パーセントの方が、「不意に」という意味で使っているという結果が出たのだとか。
問2 「やおら」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
答 本来の意味である「ゆっくりと」と答えた人が4割強,本来の意味ではない「急に,いきなり」と答えた人が4割台半ばという結果でした。
かくいう私もそうであった。正確には、先日、文章(仕事ではない)を書いていて、おもむろにを使おうとして、ん?と何かひっかかり、調べてみたところ、その関連語としてやおらもでてきて、あかん、どっちも逆で覚えていた、ふーセーフ、あぶなかった、と未然に防いだのだった。その点では、ん?という勘がまだ働くことをよしとすべきかもしれない。のだけど。ん?をすりぬけて使ってきたパターンもあったのではないか、あった気がする、と思い、ふっと気が遠くなりかけた。
「急に」や「いきなり」というニュアンスを出したいけど、別の表現にしたい時には、代替案として、やにわにやだしぬけになどが使える。でも、実をいえば、やおらという響きが今使いたいここのこの文章のムードにはぴったりなのにやにわにかよう、とごねる子が脳内にいる。本来の正しい表現であるやにわにに対し、おめえどこの組のもんだ、といちゃもんつける三下もいる。
恥の上塗りをすれば、すべからくも似たようなまちがいをしていた。「あらゆるものみな」といった意味で使いたいなら、おしなべてやあまねくなどがふさわしい、ということで、これも一応は自分の中で修正されている。実際、おしなべてはおしなべてでわりと使う。けれど、正直なところ、すべからくがぴったりな(と思い込んだ)場面では、おしなべてに置き換えた途端、三下が背中を曲げて腕を組み、納得いかない様子でおしなべてを横にらみしだす。そもそもまちがって覚えている方が悪いのだけどそこはさすが三下、チっ、兄貴は甘えから、おしなべてがすべからく組にはいりゃええんですよ、そうそりゃ使えんのによう、と、気に入らないのか仲間に引き入れたいのかよくわからない難癖をつける。兄貴とは。
ここでさらにめんどくさいことを言い始めると。
元の意味と真逆の意味で使われるようになり、最初は誤用扱いだったけど、いつしか一般的に受け入れられる言葉もある。たとえば、そうだな、全然は昔は否定語とセットで使われる言葉であったが、今では「全然いい」のように肯定的に使われる場面も少なくない。渋い顔をする人もいるだろうけど、わかって使っているなら許容範囲とされる空気になって久しいようにも思う。うーん、全然ぴったりの例じゃない気もするけど、ともかく。
この誤用→受容の変換点はどこなのか。よく使われる言葉でないと、この流れは起きにくい気がする。たくさんの人が使って使って、だんだん優勢になっていき、やがて、まあ、それでは、ありということにしましょうか、というコンセンサスを得る。一般的に通用するようになる前に、あいつまちがってるんだぜふふふ、と大勢に思われながら使うのはやはり格好が悪いので、できればやめておきたい。
ともかく、何が言いたいかというと、やおらやおもむろにはそろそろ受容が起きてもいいんじゃないかな?(希望)ということである。ただ、よく使われる言葉という点で、やおらやおもむろには非常に微妙な場所にいる。本をよく読む人や言葉に意識的な人なら普通に知っているだろうけど、日常的に会話で使うかといえば、いやどうだろう、という位置づけ。しかも、上記した文化庁のサイトでも指摘されているように、文脈の中においてさえ、それもれっきとした日本文学の一文でさえ、とっさには本来の意味で使われているか判断しづらい。
やおらふりかざす、とは、ゆっくりふりかざすことであり、いかにも襲ってきそうないきおいのある動作ではないし、おもむろに起き上がる、とは、ゆっくり起き上がることであり、むくっと起き上がって、わ、どしたん急に、と周囲の人を驚かせる挙動ではない。しかし、前後の文章を持ってしてもそのまちがいに気づける材料が転がっていることは少なく、しかも多くの場合、致命的なまちがいでもないため、正しく受け取った人とまちがって受け取った人がともに問題なく結末まで読みすすめてしまう。
そういう許容の幅がある言葉は、誤用の多用→認知の流れが起きにくく、この先も当分、カオスな揺れがあるまま使われていく気がしている。
ただ書く側になった時は重大だ。まちがいを犯さないよう各自対処するには、使う段階になって調べる行為を怠らない、アンテナをちゃんと立てておく、ことくらいか。ってまちがっていた本人が何をいうかだけど。気にしすぎてもぎこちなくなって、句読点のように悩み始めるといつまでもいつまでもというようなことになるし、文章を書き進める手が止まったり腰が重くなったりもするので、そのへんのさじ加減が難しいところ。
ある程度は気にせず、とにかく書き上げてから見直す。見直してきた数ほど、ん?という勘が育つ。自ら調べて、自ら誤用に気付いて、自ら訂正するほど、のちのち文章を書くのがスムーズになる。ってアゲイン、まちがっていた本人が何いってんだか、だけど。今までまちがってきた(かもしれない)道を思うと、また上記文章の中でもやらかしているかと思うと、気が再び遠くなりそうなので、このまま寝ることにします。
とほ
揺れるシリーズ。