続きです。
2017年、帰省すると妹が古事記にはまっていた。日本の古代の神々に鬼詳しくなっていた。一応説明すると、妹は神社巡りが好きな普通の会社員である。
一方、その頃、私はインド神話にはまっていた。はまっていたというか、インドの神様から半ば強制的にインド文化についてスパルタ教育を受けている最中であった。どういうことかというと、私の本を読んでくださった方からのご縁で、ある研究の一環としてインド文化をまとめる担当をすることになり、ぶあつい原著や資料と格闘していた。
そのお手伝い自体に関しては、一つの側面を見れば、無償で何かを引き受ける際の線引きについておおいに学ぶ結果になった。無償であることは承知で引き受けたのだけど、やるからには中途半端にできない性質もあって、自分でいうのもあれだが密度の高い仕上がりをお渡しできたと思う。でもそれがよかったのか悪かったのか、最初に承諾した範囲をこなしたあとも続いていく流れになり、渡される資料は増えていき、研究は終わりが見えず、だんだん自分の仕事と他にやりたいこととの時間の兼ね合いが難しくなり、最終的には頃合いをみて辞退させていただいた。
インドの神様によるスパルタ教育
ただ、この経験には別の側面もあった。
ひとつの国のひとつの文化を担当するといっても、あらゆる歴史や文化は互いに密接に絡みついているものである。古代文明に始まる歴史、地域、人種、言語、思想、宗教、経典など、それまで個人的に興味の赴くまま拾い集めてはいたものの自分の中であちこちに散らばっていたインドに関する知識の実が、原著を精読しまとめている過程である時、ざああっと一本の木に集約された瞬間があった。あの感覚はおもしろかった。
その木は、その後に長いインド道を思えばあくまで基本中の基本ではあったのだけど、でもベースとなる木が自分の中で立ったことにより、その後のインド道が少しだけ進みやすくなった気はした。映画を観たり本を読んだりしていても、登場人物の行動がカーストに起因しているのか宗教や地域に基づくものなのかとか、ある人とある人が食べ物を一緒に食べないのはそういうことなんだな、みたいなことがすっとわかるようになり、またそれが次の関心へとつながっていった。研究をお手伝いすることになったのは、「君インドが好きとか言ってんの?じゃあまずこれとこれとこれ読んどいて」と、ヴェーダの神々が私にスパルタ教育を施すために振った采配のような気がしてしょうがなかった。
余談が長くなったが、そんなわけで2017年前半は内面的にインドに古代から中世期くらいまでどっぷり浸っており、帰省は、シヴァ神、ヴィシュヌ神、その前身からアヴァターラを引き連れての帰還(おおげさ)であった。
日本の神話とインドの神話のつながり
そこに古事記である。天照大神に須佐之男命に大国主命である。
って別に喧嘩になったわけでもなんでもないんだけどね。こういう話が好きな同士であるために、私もインドに限らず本国日本を含め各国の神話に興味があるだけに、お互いに知っていることを投げあって楽しく会話したよ、というだけでございます。バトルだなんて盛ってすみません。
でもこの会話が、今回の神話を巡る旅をより楽しいものにしたのは間違いなく、妹とは広島で合流して厳島神社から先を一緒に巡ることになったし、間接的には、出雲大社で出会ったハンガリーから来た双子のおふたりとの日本の神話と西洋に神話の類似性に関する雑談につながった気もしている。
大国主命と同一視されるのは
トライアングルの旅は、私にとって大国主命と弁才天に出会う旅でもあった。
ところで、ご存知の方も多いと思うけれど、日本の神様とインドの神様は、日本での神仏習合により一体化された神様も多い。
出雲大社の御祭神、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、七福神の大黒天と同一視されている。「大国」と「大黒」の音が通ずるかららしいが定かではない。
そして大黒天はもともとは、ヒンドゥ教の破壊と再生の神様、シヴァ神である。
大国主命は、因幡の白兎の逸話だけでなしに、全体的にやさしくやわらかい印象がある。そのことは、出雲大社にいる間ずっと、本殿をぐるりとまわりながら、そして像を見上げながら、感じていた。義理のおとうちゃん(すなわち天照大神の弟、スサノオさん)の猛々しさやんちゃさも神話としては好きだけど、しっとり落ち着いた日本の性質に目がいくときには、大国主命の存在がとてもしっくりくる。地に足ついた誠実そのものの神様という気がする。
一方、これもとても一言で言えないけど、シヴァ神は破壊の神様というのがまっさきにくる。どちらかというと須佐之男命に通じる気がする。シヴァ神はシヴァ神で言いしれない魅力がある(魅力というレベルで話していいのかはともかく)のだけど、なので、心優しい日本の神との一体化はイメージとしては合わない気がするなあと。でも、こういうイメージの差はおもしろい。
ただ、これは私が感じたことだし、素人レベルの視点で話しているので、そのあたり詳しい文献があれば読みたいし、詳しい方にご教授いただきたいと思っている。
弁才天と同一視されるのは
さて、一方、厳島神社の御祭神、市寸島比売命/市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと※)は、七福神の弁才天(弁財天)と同一視される。
そして、
そして、
そして、
弁才天はヒンドゥ教の女神サラスヴァティである!
すみません、興奮しました。
なぜなら、
弁才天は、
サラスヴァティは、
私の女神だから!
まって、帰らないで。
勝手に決めました。ある時から弁才天/サラスヴァティは私の守り神と勝手に決めて、毎年スケジュール帳に貼るなどしている。江島神社は大好きな神社でなにかといえば参拝しているし、その際に奉安殿は欠かさないし、インドでは、お土産屋のおじちゃんに「サラスヴァティのシールかグッズここないの?」と聞いて困らせるなどしている。
ただのミーハーという話もあるけれど、そもそもサラスヴァティシールがある時点で、インドの神様文化がミーハー心にやさしいブロマイド文化だからいいのである。ということにしておく。
でもね、決めたのは自分の中でしっくり来たからであり。
厳島神社の御祭神に話を戻すと、なにかどことなくほっとする大国主命にくらべると、厳島神社、そして江島神社の三柱は、わたしが女というのもあるのか、少し厳しく感じるというか、背筋が伸びる思いがする。大国主命がゆるやかな空気をまとい、お茶を飲んでくつろいでいっても許してくれそうなのに対し、この三柱の前では気がひきしまる感覚がある。
弁才天には、私はどちらかというと(というかかなり)自分に甘くゆるい面があるので、これだけは成したいというひそかな目標について見張っていてもらいたい気持ちがある。特に宗教を持たないゆえに、いわゆる「おてんとさま」的な位置にいてもらっている感じ。おてんとさまといえば、天照大神なんだろうけれど、私の向かいたい道に寄り添ってもらえそうなのは弁才天なのです。
弁才天とサラスヴァティを一緒くたに話してしまって、詳しい人からはお叱りを受けそうだけど、ミーハーということで大目に見てやってください。
とほ