1月某日。
なぜインドなんだろう。
今日は祝日でシャールクカーンの新作が一日10回以上の上映があるというのに夜までとれなくてしきりなおしになった。でもそれさえも、タコベルの待ち時間が長いのも、うまい具合にどれも辛くないものを頼めたとおもっていたのにチーズをトルティーヤで挟んだだけのスナックが辛くてやられたとなっても、おしゃカフェで頼んだイングリッシュブレックファーストがちゃぶ台をひっくりかえしそうなほど辛くてきみたちは一度イギリスに行って英国の朝食がどういうものか修行してきなさいとなっても、街中でオートや車が無理な近さでまがってきて「いやいやいやいや」と毎回つぶやいてしまっても、意味ないクラクションの多さに「とりあえずならしとこか、じやねんだよw」となっても、すきあらばの列飛ばしが日常茶飯であっても、ここにいることが楽しくて嬉しくてしょうがない。
ここにこうしているだけで幸せだ。
日本に生まれ、日本というベース基地をもらえている状態で、そのうえで外に出られていること。たとえ昨年はそのための禊のような、きゅうくつな枠から抜け出る(それも、その多くは、外に要因はあったけれどそれは引き金やきっかけにすぎず、ほとんどは内側で起きていたこと)をしてきた、それなりにきつい時期を超えてきたのだとしても、だから、というのでもなしに、ただただ、ここにこうして今いることに感謝しかない。
それがここインドなのだ。なぜこのようになってしまったのか、私の人生は。なぜインドなんだろう。そこが本当に不思議でおもしろい。
今いる地区は近くにムスリム地区があって、朝晩決まった時間にアザーンが流れてくる。日常として聞くそれがひどく好きだ。
子供の頃に夕方6時になると流れてきたサイレンや夕焼け小焼けはものさびしい気持ちにさせられたものだったけど、あれと少し似ている気もするのに、今ここで聞くアザーンは聴くたびに満ち足りた気持ちになる。あなたは今念願だった場所にいるのだという合図のように感じるからだろうか。